小野於通

(おのおつう)

生没年:1576〜1631年/ 身分:千姫の女房頭/ 官位(通称、号):なし

京都御所
天皇の住まいだった京都御所

【宮中の先生】父は小野正秀。正秀は斎藤道三の家臣だったが斉藤家が滅亡後、織田家に仕え山崎の戦いで明智光秀につき討ち死にした。於通は母と一緒に京都に逃げ延び知り合いの公家・九条種道に匿われた。そこで学問や技芸を教えられた。成人すると豊臣秀次の家臣・塩川志摩守と結婚するが志摩守が酒乱だったため離婚して宮中で学問や和歌を女房達に教えた。

【疑惑】それが徳川家康に認められて1603年に千姫豊臣秀頼に嫁ぐ時に介添女房頭に選ばれた。大坂城では物語を創作して女性達に聞かせて楽しませたという(この話は伝説との説もある)。大坂の陣直前に徳川家と豊臣家が対立すると、千姫のために裏交渉をするがそれが徳川家と通じていると淀殿に疑われ城から追放された。
 大坂の陣後は詳しくは不明だが、徳川秀忠の頼みで彼の娘が後水尾天皇に嫁いだ時に介添女房頭として再び宮中に入ったとも、また摂津長柄に庵室を建てて尼になったとも言われている。1631年死亡。

管理人・・・再び宮中に入った時に神通力で後水尾天皇の重病を治したり、次の天皇をめぐって春日局と争ったという話が残っています。於通自身が架空の人物という説もあります。

参考文献大阪人物辞典

UPDATE 2004年3月22日
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