中村勘助

(なかむらかんすけ)

生没年:1586〜1660年/ 身分:摂津の住民/ 官位(通称、号):勘助

新田義貞の像
群馬県太田市世良田町3113−9の東毛歴史資料館にある新田義貞の像

 1586年に相模の足柄山で生まれた。先祖は新田義貞だという。慶長年間に大坂の木津村に住んだ。土木の才能があったので豊臣家からの依頼で姫島に船碇泊所を設ける。大坂の陣では死体の片付けに従事し功があった。
 豊臣家滅亡後、大坂の城代となった松平忠明に重用され川崎東照宮普請の指揮や木津川の治水の指揮をとって功があった。1633年ごろに不作が続いたので勘助は私財を投じて民衆を助けたが足りず、役人に倉を開くように願い出た。しかしいつまでも話しが進まなかったため、勘助は農民を率いて倉を破って米を持ち出す。そのため勘助島に流されてそこの開発に従事したが、1660年1月に死刑となった。浪速区敷津西2丁目にある唯専寺に葬られた。

管理人・・・勘助以外にも死体の片付けに従事した人がたくさんいたんでしょう。なぜ勘助が流されてから十数年も経って処刑されたのかは疑問が残るところで、病死の説もあります。ちなみに勘助の像が浪速区敷津西1丁目にあります。以上、大阪では人気者の中村(木津)勘助さんでした。

参考文献大阪人物辞典

UPDATE 2005年8月6日
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