国松

(くにまつ)

生没年:1608年〜1615年/ 身分:豊臣秀頼の子/ 官位(通称、号):なし

【三代目】豊臣秀頼の息子として生まれる。母は北条氏の家臣・成田氏の娘とも、伊勢より奉公に出てきた娘とも言われている。生まれてすぐ京極家に預けられるが、その後、若狭の砥石屋弥左衛門に養子に出され7歳までそこで育つ。
 1614年に大坂の陣が起こると徳川家から詮索を受けるといけないということで、最初はどこかへ落ち延びさせようという計画だったが和議の使者として京極家の常高院が行くことになったため、一緒に大坂城につれていくことになった。この時、徳川軍にばれないように長持(衣類・布団などを入れる木箱)に入れて運んだと言われている。その後、和議が成立したためそのまま国松は大坂城に残ることになった。

国松の墓
京都市東山区今熊野北日吉町にある国松の墓

【斬首】翌年、大坂夏の陣が起こり豊臣軍が敗北すると秀頼と5月8日に別れの盃を交わし城を落ち延びた。京橋筋堤まで来た時、秀頼のいた山里曲輪の糒蔵に火の手があがったのが見えたという。無事に城を抜け出した国松であったが途中で護衛の者とはぐれ一人でいるところを、伏見の商人に保護された。しかし自分のことを「若君様」、父親のことを「上様」と呼んだため気味悪がられ、京都所司代・板倉勝重の元に連れていかれた。
 ここで先に捕らえられてた12歳くらいの国松付きの禿(かむろ)と、国松を引き合わせたところ、互いに懐かしがったので、間違いないということになった。豊臣家の血を引く男子と言うことで幼いにも関わらず市中引き回しの後、六条河原(七条河原とも)で斬首されている。享年8歳。

管理人・・・大坂落城からの話が諸説あって分かりません。他の話だと、前田軍に捕まってしまいそのまま処刑されています。京極家に出されたのは徳川家にばれるとまずいからと本には書いてあったのですが、千姫以外から子供が生まれたりするのがまずかったのでしょう。

参考文献大坂の役、ほか

UPDATE 2002年1月14日
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