一柳太郎兵衛

(いちりゅうたろべえ)

生没年:?〜1678年?/ 身分:豊臣軍の一員/ 官位(通称、号):太郎兵衛

【新田開発】大坂の陣が起こると大坂城に篭ったが落城後に逃亡。大阪市東淀川区柴島の法華寺に縁者がいたため逃げ込んで住み着き、摂津新家村の指導者となる。その頃の新家村は淀川の水流が複雑に入り組んで『二重新家(堤防が二重必要という意味)』と呼ばれるほどの治水の悪い土地だったが、新田の開発に力を注いだ。その功で1631年には3年間の年貢免除の特権を与えられて庄屋となる。

【中島大水道】当時、増島村と申新田にいたる10キロ範囲が洪水に泣かされていたため、太郎兵衛は北大道村の沢田久左衛門と山口村の西尾六右衛門らと共に幕府による普請を何度も訴え出た。1677年に幕府は重い腰を上げたものの『費用は村民の負担』などの過酷な条件を出してきたため、太郎兵衛・久左衛門・六右衛門の3人は
「せめて半分でも費用を幕府の方で負担してくれないか」
 と頼んだが、怒った幕府は許可を取り消す。
 そこで仕方なく3人は村民を説得し1678年3月から村民の自費で工事を開始。総工費2千両、工期50日で『中島大水道』と呼ばれる排水路を完成させた。工事開始当初、幕府は3人に出頭するように命じてきたが
「完成後に出頭する」
 と拒んだため、出頭しなければ捕らえると脅してきた。工事が開始して28日目、3人はもう逆らうことは出来ないと覚悟を決め、大きな柳の木の下で白装束で自害をして責任を取っている。

管理人・・・太郎兵衛ら3人の話は大阪では有名な話しだったそうで、東淀川区西淡路五丁目にある公園に『中島大水道跡碑』が建っています。あと東淀川区菅原地区にあったという『冑橋』は太郎兵衛が武士から農民になるため愛用の冑を捨てたことから来ているそうです。
 ちなみに一柳家はその後も地域の発展に貢献しています。

参考文献:大阪人物辞典

UPDATE 2012年2月14日
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