梅津憲忠

(うめづのりただ)

生没年:1572〜1630年/ 身分:佐竹家の家臣/ 官位(通称、号):半右衛門

【苦学】梅津道金の次男として下野宇都宮に生まれた。父が浪人となったため常陸太田に移って貧乏に耐えながら勉学に励む。この辛い時代に佐竹義憲の世話になったので名前の一時をもらって憲忠と名乗った。
 異父兄で武勇に優れた水野春阿弥が25歳で亡くなったので、その跡が耐えるのを惜しんだ佐竹義宣が憲忠を茶童にする。その後、祐筆となり重用されたが、同僚の真崎某を口論の末に怪我をさせたので追放された。

今福
憲忠奮戦の地、大阪市城東区今福

【佐竹の黄鬼】しかし後に帰参を許され、1602年の秋田減封後は、弟の政景と共に領地の経営に力を発揮した。義宣は『農業・林業・鉱業』を産業の基本としたが、これは梅津兄弟の見識から生まれたと言われている。
 大坂冬の陣に従軍し、今福の戦いで佐竹軍は同僚の渋江政光が戦死するほどの苦戦をしたが、憲忠は三ヶ所に深い傷を受け血だらけになりながら奮戦し、黄唐織の幌を付けていたため『佐竹の黄鬼』との異名で呼ばれた。
 陣後は家老となり、政光の田法を完成させ、法を整備するなど、藩の基礎作りに貢献する。1630年7月11日死亡。法名・万雄英徹居士。万雄寺に葬られた。

管理人・・・憲忠は主君の信用が絶大で、藩一の権力者となりましたが『裁決は水が流れるようで私情は挟まなかった』という公平な人だったそうです。また連歌・和歌・茶湯にも優れた名将だったと伝わっています。

参考文献三百藩家臣人名事典戦国人名事典 コンパクト版大坂の役・秋田人名大事典

UPDATE 2003年11月19日
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