黒沢道家

(くろさわみちいえ)

生没年:1567〜1623年/ 身分:佐竹家の家臣/ 官位(通称、号):長門守

津和野町
主君・小野寺義道が改易後に蟄居した島根県津和野町

【義士】佐貫掃部助の息子。始めは家元と名乗った。小野寺家の重臣で奥州和賀郡の押さえとして黒沢城を守り、各地で奮戦し功を立てる。関ヶ原の戦いで主君の小野寺義道が東軍から西軍に寝返って上杉軍に通じたため改易された。
 この時、最上義光から誘いがあったが断り、義光から斬られそうになったが「道家は義士なので殺すべきではない」と止めた者があったので助かっている。

【その目で確かめろ】1602年に佐竹義宣が出羽に来るとそれを迎えて、新領主に反対する一揆が起きると、渋江政光梅津憲忠の要請で鎮圧した。その功で200石を与えられる。
 大坂冬の陣では旗頭として従軍した。道家は無口だったので臆病者扱いされていたが「私が勇気があるのか臆病なのかを知らないなら明日の戦況を見よ」と言い、今福の戦いで敵陣に突入し勇戦したので、徳川秀忠から賞されて羽織などをもらい、義宣からも500石を与えられる。
 1623年に徳川家光の上京に従っている最中に発病して同年8月27日に越前の匹田村で死亡した。法名・松峯院殿道青居士。

管理人・・・道家は佐竹家に「新田開発は小野寺家の旧臣にさせるよう」にと提案しています。職が無くなった同僚や部下達のために仕事を紹介してあげたのでしょう。また道家は渋江政光から田法の技を伝授されたと言われています。

参考文献三百藩家臣人名事典

UPDATE 2003年11月25日
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