伊達宣宗

(だてのぶむね)

生没年:1594〜1632年/ 身分:佐竹家の家臣/ 官位(通称、号):左門

【横手城主】佐竹家の重臣で6万石を領した東義久の三男。伊達盛重の養子となり1608年6月に佐竹義宣に拝謁して一字を賜って宣宗と名乗った。大坂夏の陣に従軍。1615年7月15日に盛重が死亡したので家督を相続し横手城主となる。

太陽
大眼宗が崇めた太陽

【大眼宗】1620年に太陽と月を崇拝する大眼宗というものが領内の一部で流行したので、佐竹藩はキリシタンと同類の邪教と見なし弾圧を加えた。しかし教祖の厳中(後藤寿庵と同一人物説あり)はそれにもめげず伊達宣宗の領地・今泉村に移動し名前を七佐衛門と変え布教活動を行なう。
 そのため1622年2月に宣宗は騙して厳中を呼び出して捕らえようとしたが、信者と宣宗の護衛の者が衝突し厳中に逃げられてしまった。

【追放】宣宗はその失敗を咎められて改易され江戸に移り住む。ほとぼりが冷めた1629年の春に密かに佐竹領の水沢に移り、妻と共に静かに暮らした。1632年4月2日死亡。法名・玉翁宗白大禅定門。墓は平鹿郡大森町川西にある一心庵の西方300メートル先の農道脇に現存する。

管理人・・・その後、宣宗の妻は息子の自然丸を擁して伊達家再興のために運動を起こし、1644年についに560石を与えられて再興に成功しています。また平鹿郡大森町川西の下田にある一心寺の北側に伊達小山という丘がありそこに宣宗が移り住んでいたそうです。

参考文献三百藩家臣人名事典・秋田人名大事典

UPDATE 2003年12月4日
Copyright (C) 2003 Tikugonokami.