大須賀忠次

(おおすかただつぐ)

生没年:1605〜1665年/ 身分:遠江横須賀5万石の大名/ 官位(通称、号):五郎左衛門

大須賀忠政の墓
群馬県館林市楠町の善導寺にある父・大須賀忠政の墓

【徳川四天王の孫】横須賀城主・大須賀忠政(榊原康政の長男)の長男として遠江横須賀に生まれた。1607年に父が亡くなったため僅か3歳で横須賀城5万石(6万石とも)の城主となる。大坂の両陣には幼少なので参陣しなくてもよいと徳川家康に説得されたにも関わらず、請うて出陣し天王寺に布陣した。

【榊原家を継ぐ】陣後、榊原康勝が亡くなり跡継ぎがなかったため、甥にあたる忠次が跡を継ぐ。1616年1月に式部大輔に任ぜられた。その後、日光山に家康の遺体が来る時に船や宿舎の準備を行う、家光の上洛に従うなどで功があり、1625年に1万石を加増される。
 1643年に陸奥白河に移封された。1649年に播磨姫路15万石に移封される。1662年に井伊直孝の跡を継いで後見職となり、幕政に参加した。1665年3月29日死亡。法名・浄晃院天誉長山。姫路市の増位山随願寺に葬られる。

横須賀城
静岡県掛川市横須賀にある横須賀城

管理人・・・忠次は姫路の歴代藩主の中で一番の名君と言われ、内政では災害が起こり田畑に被害があった場合は年貢を免除し、河川の改修や新田の開発などにも力を入れています。また家来の人間相手の試し斬りを禁じ、死刑にする場合は何度も詮議して冤罪が起こらないようにしたそうです。それらの政策のため、領民は忠次のことを褒め称え仕事に精を出しています。
 そんな名君の忠次の奥さんは黒田騒動を起こした黒田忠之の姉妹(黒田長政の娘さん)、、、。奥さんは黒田騒動をどんな風に見ていたんでしょうか?

参考文献三百藩藩主人名事典

UPDATE 2005年7月16日
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