大久保忠教

(おおくぼただたか)

生没年:1560年〜1639年/ 身分:三河額田郡1千石の領主/ 官位(通称、号):彦左衛門

【譜代中の譜代】大久保忠員の八男。大久保家は徳川家譜代の名門で代々主家のために尽してきた家柄だった。忠教もその家の人間にふさわしい活躍をし、1575年の遠江犬居城攻め、1581年の遠江高天神城攻めなど武田軍との戦いで戦功を上げる。

上田城
忠教が活躍した長野県上田市にある上田城

【第一次上田城攻防戦】1585年、信州上田城主・真田昌幸が徳川家から上杉景勝に主君を鞍替えし、これに怒った徳川家康が上田城攻めを命じた。
 7000の徳川軍に対してわずか2000で篭る真田軍、楽勝のように思えたが昌幸の采配に翻弄され結果は惨敗。この時、忠教は『下戸に酒を強いたる』ような状態になった徳川兵の中で兄らと共に奮戦したが、敗戦だったため評価されなかった。

【辞退】1590年の小田原征伐後、徳川家が関東に移封されると、忠教は2千石を賜る。1612年に兄・忠佐に子供がいなかったため沼津2万石を相続してくれとの話が舞い込んできたが、忠教は『2万石分の働きをしていないのに受け取る訳にはいかない』と辞退した。そのため忠佐が1613年に死亡すると彼の家は改易になってしまう。
 1614年、主君で甥の大久保忠隣が謀反の疑いと無断婚姻という理由で改易されると、忠教も一度は領土を召し上げられたが、改めて三河国額田郡坂崎に千石を与えられた。

八百神社
忠教の陣屋跡に建つ愛知県額田郡幸田町にある八百神社

【旗は確かに立っていた】1614年に大坂の陣が起こると、忠教は槍奉行として従軍。夏の陣の天王寺・岡山での最終決戦で、徳川軍は真田幸村によって本陣を蹂躙されたが、そんな中でも忠教は慌てず冷静に対処している。
 戦後、二条城で家康が旗が倒れたかどうかの詮議をした際、他の者が全員旗が立っていたのを見ていないと言う中で、忠教はただ一人立っていたと言い張った(事実は混乱の中で倒れてしまっていた。そのため旗奉行は罰を受けている)。家康は『嘘を言うな!』と激怒したがそれでも彼は意見を変えなかった。歳で汚名返上の機会がない家康のためにあえて嘘を言ったのだ。忠教は切腹を覚悟したが、家康もそのことが分かったのか何のおとがめもなかった。
 1622年ごろ、子孫に武功と教訓を伝えるため筆を取った。有名な『三河物語』である。1639年2月1日死亡。三河の長福寺に葬られる。

大久保忠教の墓
愛知県岡崎市竜泉寺町前田の長福寺にある大久保忠教の墓

管理人・・・彼に関する逸話がたくさんありますので、それをいくつか紹介していきたいと思います。
 ある日、忠教は同僚から「お前が小身なのは、上司に賄賂を渡さないからだ」と言われました。そこで忠教は袋に食べ物を入れ、上の者を訪れ「上司に賄賂を出せと言われた。受け取れ」と放り投げて帰ったそうです。
 また、島原の乱が起きた時、誰を追討使に向かわせるかで議論されたが、忠教は「天海か春日局を向かわせればいい。日頃、彼らがお上からお目をかけられているのはこういう時のためだ」と言い放ったそうです。

 とにかく頑固で誰にも遠慮せず意見を述べる人で典型的な三河武士って感じがします。彼らのような人が多かったから家康は晩年に三河武士を遠ざけたのでしょうか、、、。
 忠教の書いた『三河物語』ですが、はっきり言って面白くありません。読むなら『マンガ日本の古典 23・三河物語(安彦良和著、中央公論社)』がお勧めです。三河から武士を夢見て出てきた農民の子から見た忠教が描かれており非常に面白かったです(安彦氏自身も後書きでつまらない三河物語を面白くするため書いたと言われています)。以上、天下のご意見番、大久保彦左衛門でした。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版日本の歴史を騒がせたこんなに困った人たち・三河物語徳川四天王―精強家康軍団奮闘譜、ほか

UPDATE 2002年7月3日
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