織田信貞

(おだのぶさだ)

生没年:1574〜1624年/ 身分:徳川軍の一員/ 官位(通称、号):左京亮

信長の像
愛知県清洲市の清洲城に建つ父・信長の像

 織田信長の九男。母は土方雄久の娘。本能寺の変後、埴原長久に育てられるが、やがて豊臣秀吉の馬廻となって、近江の神崎郡と蒲生郡内で1千石を与えられた。
 関ヶ原の戦いでは西軍につき伏見城攻撃に参加したため改易される(『寛政重修諸家譜』では戦後に美濃路で家康に謁見し領地を安堵された、となっている)。後に徳川家康に仕え大坂の陣にも従軍した。1624年6月6日死亡。法名・宗恵。京都の上行寺に葬られた。

管理人・・・信長の息子が大坂の陣に参加していたのですね。ちなみに信貞の子孫は旗本として徳川家に仕えています。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版寛政重修諸家譜、ほか

UPDATE 2004年3月6日
Copyright (C) 2004 Tikugonokami.