織田信雄

(おだのぶかつ)

生没年:1558〜1630年/ 身分:隠居中/ 官位(通称、号):常真

長島一向一揆殉教之碑
桑名市長島町又木の願證寺にある長島一向一揆殉教之碑

【信長の息子】織田信長の次男。母は愛妾・生駒の方。幼名・茶筅(ちゃせん)。1569年に信長が伊勢に攻めこみ北畠家を追い詰めた際、和睦の条件として北畠家の養子になり、1575年、家督を継いで北畠姓を名乗る(ただし本能寺の変後は織田姓に復帰)。

【失態】1574年の伊勢長島の一向一揆攻めで初陣し(異説あり)、その後、紀伊雑賀攻め・石山本願寺攻めなどに参加して信長の息子としての役目を果たした。しかし1579年9月に勝手に伊賀に侵攻し、敵のゲリラ戦に翻弄され大敗してしまう。これは信長の大激怒され「親子の縁を切る」とまで言われたが、のちに許されている。

清洲城
信雄が城主だった愛知県清洲市にある清洲城

【大失態】1582年の本能寺の変の際に信雄は京都にいなかったため難を逃れた。そこで信雄は明智光秀を討とうと近江の土山まで兵をすすめたが、山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉に負けたことを知り聞き引き返した。そのため安土城に入った信雄であったが、故意か不始末か安土城を焼いてしまっている。

【後継者は俺だ!】織田家の後継者を決める清洲会議でなんとか後継者に任命されようと画策したが、秀吉が嫡孫の三法師(後の秀信)を押し後継者に選ばれてしまったため計画通りには行かなかった。1583年に柴田勝家と織田信孝が秀吉の織田家乗っ取りを防ぐため立ちあがると、信孝と仲の悪かった信雄は秀吉に協力。岐阜城の信孝を攻めて開城させ、後に自害させている。

蟹江城
小牧・長久手の戦いで信雄らが落とした愛知県蟹江町蟹江本町にある蟹江城

【小牧長久手の戦い】これでライバルの信孝がいなくなり織田家中で発言力が強まった信雄であったが、気がつけば秀吉が絶大な権力を握り織田家そのものが危うい状況になっていた。
 これに危機感を感じた信雄は秀吉と通じていると噂になっていた三家老を殺害した。これを秀吉が厳しく詰問してくると、隣国で信長の同盟者であった徳川家康に助けを求める。
 秀吉の台頭を快く思ってなかった家康は信雄を助けるために立ちあがり、小牧長久手の戦いが始まる。四国の長宗我部元親や越中の佐々成政らも巻きこんだこの戦いは、重要な防衛戦でこそ勝利したが、信雄の領地の城は次々と落とされ次第に追いつめられていった。

【単独和睦】そこで信雄は羽柴軍と単独講和し、その後は羽柴軍の一員として戦う。四国征伐・越中・九州征伐・小田原征伐などに参陣している。秀吉の下につくのは面白くはないが、時代の流れから言って仕方がないと思ったのであろう。

小幡陣屋(楽山園)
群馬県甘楽郡甘楽町小幡にある信雄の居城・小幡陣屋(楽山園)

【失意の日々】小田原征伐後、論功行賞で徳川家の旧領である三河など五ヶ国に転封するよう言われる。織田家の出身地である尾張を手放したくない信雄はこれを拒否。すると秀吉はこれを好機と命令拒否を理由として信雄の所領を没収し、下野烏山に配流してしまう。信雄はこの時に出家して常真と名乗っている。その後、秋田・伊予などに身柄を移されたが、1592年に秀吉の御咄衆として復帰した。秀吉死後は隠居し家督を息子の秀雄が継ぐ。

【保身に動く】1600年に関ヶ原の戦いが起きると近畿の情報を東軍に流している。しかし秀雄が西軍についてしまい所領は没収されてしまう。それから信雄は大坂城にいたが1614年に大坂冬の陣が始まると大坂城を脱出し豊臣軍の情報を徳川軍に提供した。大坂落城後は5万石を与えられたが、領土は息子に譲り自身は京都で余生を過ごす。1630年4月30日、京都で死亡。

信雄の墓
群馬県甘楽郡甘楽町小幡の崇福寺にある信雄の墓

管理人・・・信長の愚息として有名な信雄ですが、どこでもかしこでも悪く言われつづけているので本などで見た擁護する言葉を抜粋してみたいと思います。
 安土城を焼いた件ですが、信長の世間での強烈なイメージを払拭するためにしたという意見です。信雄が跡を継いだ時に信長の印象が強いと、為政者としては非常に困るからです。
 また転封を拒否した件ですが、これは恩のある家康に対する遠慮から断ったと言う説です。家康の旧領に入るのは申し訳ない、と思ったのでしょう。

 しかし信雄は本当に悪く言われたい放題ですね。当時でも「三介(信雄のこと)殿のなさることよ」と馬鹿にされ、外国の宣教師に「普通の人より智恵が劣っていた」などと評されてます。
 また「天下を取ったらどうするか?」と家臣に聞かれた際に「得意の能を見せてやるか」と答えたことが、暗愚の象徴として言われています。しかしこれはただ信雄が冗談でいっただけでは・・・。「冗談までいちいち文句つけられてはたまらん」と本人も思っていることでしょう。名将といわれる人が同様の発言しても何も言われなかったでしょう。以上、信長の息子の中では評判が最悪の織田信雄さんでした。

参考文献日本の歴史を騒がせたこんなに困った人たちしぶとい戦国武将伝、ほか

UPDATE 2001年11月17日
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