丹羽長重

(にわながしげ)

生没年:1571〜1637年/ 身分:常陸古渡1万石の大名/ 官位(通称、号):五郎左衛門

丹羽長秀屋敷跡
名古屋市西区児玉3丁目19にある丹羽長秀屋敷跡

【削られていく領土】織田家の重臣・丹羽長秀の子。母は織田信広(織田信長の異母兄)の娘。岐阜で生まれる。1583年の賤ケ岳の戦いで戦功があり、1584年の小牧長久手の戦いでは北陸を離れられない父に代わって出陣している。1585年4月16日に長秀が死亡すると、越前・若狭・加賀140万石を継ぐ。
 しかし同年8月に佐々成政の篭もる富山城を攻めた際に先陣の兵士達に謀反の動きがあったとして、豊臣秀吉によって越前・加賀を削減され若狭12万石だけを残された。この際、長束正家・村上義明・溝口秀勝ら重臣も秀吉に召し上げられてしまう。しかも1587年の九州征伐の際に、丹羽軍の兵士がまたも軍律を犯したとして、若狭を召し上げられ加賀松任に4万石だけを与えられた。
 その後、小田原征伐・朝鮮出兵に従軍し、その恩賞として加賀国内で8万石を与えられ、合計12万石となり、城を小松に移す。これと一緒に従三位・参議と加賀守に任ぜられた。

【揺れる心】1598年に秀吉が死亡すると、徳川家康に近づき、石田三成に組する加賀金沢城主・前田利長の動きを監視する。
 しかし利長が家康に屈し、1600年、長重に前田軍の指揮下に入って会津の上杉景勝征伐を命じられると、利長と仲の悪い長重はそれを不服として病気などという理由をつけてそれに応じなかった。利長は長重の行動を疑い、そのまま自分だけが会津に向かって長重が西軍についたら領土が危ないと判断し、丹羽軍の篭もる小松城を攻めることを決める。

丹羽長秀の墓
福井市つくも2−17の総光寺にある丹羽長秀の墓(右側のもの)

【浅井畷の戦い】その頃、長重には石田三成から家康討伐の檄文が届いており、去就に迷っていたが、前田軍が向かってくると知り、西軍に味方することを決意。利長は松任に着くと、もう一度使者を送り、長重に東軍につくように伝えたが、これを拒否し、城の防備を固めた。利長は要害の小松城は落としにくいと判断し、同じく西軍についた加賀大聖寺城主・山口宗永を先に攻めることした。
 宗永は奮戦したが、1600年8月3日に大聖寺城は陥落。前田軍は余勢を駆って越前まで攻めようとしたが、そこで西軍に大谷吉継らの援軍が到着する。ここで西軍が海路から金沢を攻めるという情報が入り、利長は、8月5日、急いで金沢に帰ろうとした。しかし帰路を丹羽軍が待ち構え、小松城下の浅井畷などで衝突。多数の死傷者を出したが決着がつかず、双方とも兵を引き、前田軍は金沢に戻る。
 8月22日、長重は家康の使者として来た土方雄久の勧めに従い、長重は本多正信らに使者を送り、家康に敵意を持っているわけではないと弁明した。そこで長重は利長と和睦し、人質を交換して北陸での戦いは納まった。

大隣寺
丹羽長重が葬られた福島県二本松市成田町1-532にある大隣寺

【白川城】関ヶ原の戦いで東軍が勝利を収めると、長重は西軍に属して戦ったため所領を没収され、山城の鳥羽で閑居する。しかし1603年に徳川秀忠の執り成しで常陸古渡1万石の大名に復帰した。1614年に大坂冬の陣が起こると、鴫野の戦いで上杉景勝らと共に奮戦、夏の陣でも若江の戦い木村重成軍の左翼・木村宗明隊を撃破する活躍をしている。
 その戦功で、1619年に常陸・江戸崎に1万石を与えられた。1622年には更に3万石を与えられ、6万石の大名となり棚倉に城を築く。1626年に秀忠上洛に供として加わり、二条城への天皇行幸の時に「御酌」の役目を務めている。1627年に陸奥・白川など4郡で10万石を与えられ、小峰城(白川城)に移り、大改修と町を整備した。1637年3月6日死亡。

管理人・・・波瀾の人生を送ってますね。大国で邪魔だったために秀吉から難癖をつけられて領土を減らされています。領土は小さくなるし、有能な家臣は奪い取られるしで、長重はうんざりだったことでしょう。
 以上、白河市の基礎を築いた丹羽長重さんでした。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国大名諸家譜戦国人名事典 コンパクト版・日本の戦史 関ヶ原の役、ほか

UPDATE 2002年2月2日
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