成瀬正成

(なるせまさなり)

生没年:1567〜1625年/ 身分:尾張徳川家の家老/ 官位(通称、号):隼人正

犬山城
愛知県犬山市犬山北古券に建つ犬山城

【三河武士】成瀬正一の長男として三河成瀬郷で生まれる。成瀬家は徳川家の譜代。天正年間に徳川家康の小姓となった。1584年の小牧・長久手の戦いで初陣し、首級2つを獲る。1585年の紀州征伐後に浜松に逃げてきた根来衆50人程を預かって自分の指揮下に組み入れた。
 1590年の小田原征伐に従軍し、その後徳川家が関東に移封されると下総葛飾郡栗原に4千石を与えられる。1600年の関ヶ原の戦いで戦功があり、堺奉行となった。

正成の墓
愛知県犬山市大字犬山字瑞泉寺26の臨渓院に建つ正成の墓

【老中】しかし堺奉行の任を解かれ老中となり家康の側に仕える。この頃の正成は甲斐国内で2万石と三河足助で1万石を与えられていたので、合計3万4千石の大名となっていた。1610年に老中と兼ねて尾張徳川家初代当主・義直の守役となる。1611年に甲斐国内の領地を尾張国知多郡内に移された。1612年に尾張徳川家の家老・平岩親吉が亡くなったため、竹腰正信と共に家老に任命される。
 大坂冬の陣に従軍し、和議が成立すると堀の埋め立ての指揮をした。夏の陣にも従軍し尾張徳川軍を指揮して戦功がある。1616年に尾張の犬山城を与えられ、3千石の加増を受けて、さらに後に7千石を与えられて合計3万石の領主となった(下総と三河の領地1万4千石は次男の之成に譲った)。1625年に死亡。戒名は白林院殿直指宗心大居士。日光山の妙道院に葬られた。

管理人・・・成瀬家は尾張徳川家の家老とは言っても江戸に参勤した時は大名並みの扱いを受けていたそうです。しかし、やはり不満だったらしく幕末には駆け込み大名となっています。
 正成は朝鮮出兵の際に豊臣秀吉に気に入られ
「5万石で仕えないか」
 と誘われましたが、
「禄のために主君を忘れることは出来ない。切腹してその心を示そう」
 と断っています。

参考文献三百藩藩主人名事典三百藩家臣人名事典戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2012年8月27日
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