南部信景

(なんぶのぶかげ)

生没年:1575〜1615年/ 身分:豊臣軍の部将/ 官位(通称、号):十左衛門

大阪城
信景の篭った大阪城

【南部家の重臣】南部信連・南部愛信とも。北信愛の妹の次男。信愛は南部家の一族で主家を支えた重臣。信景は1590年に信愛の後継ぎが死亡したため養子となった。
 1600年の関ヶ原の戦いで伊達政宗の策略により領内の和賀・稗貫地方で一揆が起こり花巻城が攻撃された際、出陣中だった信景は兵50を率いて戻り、他に戻った部隊と共に一揆勢を撃退させた。この功で南部利直に賞され諱を賜り直吉と改める。

【不和】白根山に金脈を発見したことにより1602年に奉行に任ぜられ、その後さらに金脈を発見し南部家に莫大な利益をもたらした。1612年、信景の10歳過ぎの息子・十蔵が利直に罪人を斬るように命じられたが返り討ちにあい死亡する。これに怒った信景は剃髪して部屋に篭って役職を放棄したため利直から謹慎を命じられた。
 そこで信景は南部家の大量の金を持ち逃げして大坂城に走った。一説には罪を得て逃亡した南部左門を追いかけてそのまま大坂城に入ったという。

南部家墓所
高野山にある南部家墓所

【惨殺】大坂の陣が起こると豊臣軍の一員として三の丸北方を守備。陣の最中、大坂城から放たれた矢の中に『南部十左衛門信景』の銘があるものが見つかり利直は徳川秀忠から詰問され窮地に陥ったが、「信景が出奔して勝手に南部姓を名乗っているだけで南部家には謀反の心はない」と弁明し一時的な謹慎で事なきを得た。
 陣後、大坂城を脱出して伊勢に逃げたが捕えられ盛岡に送られて新山川原で処刑された。処刑は残虐なもので手足の指一本ずつ切り落とされ最後には利直自らが弓でとどめを刺し首は鷹に晒される。これにより南部家の重臣・北家は断絶した。

管理人・・・信景は名将で勇気があり弓・鉄砲の達人で智謀も優れていたといわれています。そんな彼を思慮の無さで失った利直は何を考えていたのか。10歳ちょっとの子に罪人を討たせようっていうのに無理があるような気がします。何か深い思惑があったのかもしれないですが。
 信景は処刑の時に指を切り落とす役人が怖がったのを見てその臆病さを笑ったそうです。なんという人だ、、、。以上、利直への恨みで大坂城に走った南部信景でした。

参考文献三百藩家臣人名事典戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2002年9月8日
Copyright (C) 2002 Tikugonokami.