内藤忠興

(ないとうただおき)

生没年:1592〜1674年/ 身分:上総佐貫3万石の大名の子/ 官位(通称、号):金一郎

養源院
祖父・家長が自害した伏見城の血天井がある京都府京都市東山区三十三間堂廻り町にある養源院

【勇猛】内藤政長の長男として生まれる。大坂冬の陣で父・政長とともに安房の留守を命じられたが、政長に頼んで120の兵を率いて伏見に行き本多正信に参陣を願い出たが許可されなかった。しかしこれを聞いた徳川家康が許可し井上正就の傘下で従軍する。
 1615年3月に政長が1万石を加増されるとそれに合わせて忠興も1万石を与えられた。夏の陣では酒井家次の傘下で功を上げさらに1万石を加増される。

【開発】1622年に内藤家が移封されると陸奥泉2万石の大名となった。1634年に政長が死亡すると遺領の岩城平7万石を継ぎ、泉2万石は弟に譲る。それから忠興は新田開発や検地に力を注ぎ、また商人や農民への締め付けを強化した。1670年に隠居し1674年10月13日に死亡する。法名・高岳院殿円誉月心長山大居士。鎌倉市の光明寺に葬られた。

管理人・・・忠興は新田開発に熱心で石高を2万石も増やしています。

参考文献三百藩藩主人名事典

UPDATE 2004年2月14日
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