最上家親

(もがみいえちか)

生没年:1582〜1617年/ 身分:出羽山形57万石の大名/ 官位(通称、号):駿河守

最上家親の墓
山形市鉄砲町2−5−7の光禅寺にある家親の墓

 最上義光の次男。義光は伊達政宗の叔父にあたり出羽において一大勢力を築いた戦国大名。家親は1594年8月から徳川家康の近侍として仕えて彼の諱をもらって家親と名乗った。1596年からは徳川秀忠に仕え、関ヶ原の戦いでは秀忠に従軍し上田城攻めに参加している。
 1614年に父が亡くなると長男の義康がすでに亡くなっていたため出羽山形57万石を継ぐ。大坂冬の陣が起こると兵3千を率いて江戸城に行き留守を守った。夏の陣でも江戸城を守る。1617年3月6日死亡。法名・盛広院殿安慶長大居士。

管理人・・・家親の死は『今年在封して猿楽を見ながら頓死す。人みなこれをあやしむ(『徳川実紀』)』と書かれているように家臣に毒殺されたという説があります。
 その後の最上家ですが家親の幼い息子・義俊が継いだもののそれに反対する鮭延秀綱が義光の四男の山野辺義忠を推し、家臣団は二つに分かれて対立しました。幕府はそれぞれが訴えてきたので調停しようとしたもののまとまらず、『最上家には東北の要は治めさせられない』と近江1万石に大減封されてしまいました。しかも義俊が死ぬと5千石にまで減らされ大名の地位まで失ってしまっています。

参考文献三百藩藩主人名事典・江戸の大名 人物列伝

UPDATE 2004年3月11日
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