松平康重

(まつだいらやすしげ)

生没年:1568〜1640年/ 身分:丹波篠山5万石の大名/ 官位(通称、号):周防守

丹波篠山城
康重が城主だった兵庫県篠山市北新町にある丹波篠山城

【大坂城への抑え】松平康親(松井忠次)の長男。松井氏は山城松井から三河に来て徳川家に仕えたという。1583年に父が亡くなると遺領を継ぐ。後北条氏との戦いなどで功があり、1590年に徳川家が関東に移封されると武蔵騎西で2万石を与えられた。1600年の関ヶ原の戦いでは大垣城の守備に付き、その功で1601年に常陸笠間3万石に移封となる。この年に常陸の旧領主だった佐竹義宣の遺臣が水戸城奪還の一揆を起こすがこれを平定した。
 1608年に2万石を加増されて丹波八上に移封される。これにともない幕府は西南15ヶ国の大名に篠山に新しい城を築城させ、それが完成した1609年に康重はそちらに移った。この篠山城は大坂城の豊臣家に対する備えだと言われている。

岸和田城
松平康重が城主だった大阪府岸和田市岸城町にある岸和田城

【岸和田城へ】大坂冬の陣では大坂まで出陣し、夏の陣では山陰道の守りについた。それらの功で1619年に摂津岸和田5万石に移封となった。そこで城下町と領地の繁栄に力を注ぎ、1631年に幕府に願い出て石高を6万石にしてもらっている。その後、徳川家光の上洛に従う、江戸城の普請をするなどを行い幕府に尽くし1640年6月27日に死亡した。墓は京都市左京区の金戒光明寺長安院と和歌山県高野山町の高野山玉蔵院にある。

管理人・・・康重には徳川家康の落胤説があり、家康の侍女が父の康親に嫁いだ時、すでに家康の子を身ごもっておりそれが康重だったとか。それが真実だとすると康重は徳川家の次男ということになります。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2005年10月25日
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