松平直政

(まつだいらなおまさ)

生没年:1601〜1666年/ 身分:越前福井67万石の大名/ 官位(通称、号):出羽介

松平直政の像
島根県松江市殿町にある直政の像

【家康の孫】結城秀康の三男。母は月照院。1601年8月5日に近江国伊香郡河内で生まれ河内丸と名付けられた(後に国丸と改められている)。1605年に家臣の朝日重政に預けられた。
 1607年に父の秀康が亡くなると、兄・松平忠直の保護下で育つ。1611年4月17日、京の二条城で徳川家康と謁見している。この時、兄の名前をもらい出羽介直政と名乗るようになる。

【借金】1614年10月3日、北ノ庄城に大坂への出陣命令が届いた。これを聞いた直政の家臣・神谷兵庫は自分の母に頼み、部屋住みで出陣する資金のない直政のために、西本願寺から二千両ものお金を借りてきた。この家臣のおかげで直政は出陣の準備ができ、忠直に従軍して大坂城を目指すことができるようになった。

【真田丸で奮戦】1614年12月4日、真田丸の攻防前田利常が真田丸に攻撃を仕掛けたのを見た忠直は八丁目口への攻撃を命令し、闇と霧に紛れて兵を空堀に身を潜めさせた。しかし豊臣軍は準備万端の状態で夜明けと共に猛射撃をしてきた。それでも前に進もうとした松平軍であったが、まったく先に進めない。この時、直政も初陣ということで張り切り、家臣・藤木九左衛門に城壁の下に馬印を立てさせ、家臣の諌めも聞かず自身も前に出ようとしたという。

【夏の陣】翌年、夏の陣が起こると、大坂城へ向かう途中の大津で忠直から甲冑を与えられている。この夏の陣での松平忠直軍の奮戦は目を見張るものがあり、3750の首級と、真田幸村の首を獲っている。
 天王寺・岡山での最終決戦で徳川軍が崩壊し、豊臣軍が大坂城へ殺到すると、直政も京橋口から大坂城へと入った。この時、家臣の武藤太兵衛が直政の性器を握り「人は怖気づいた時は縮むものですが、殿のは縮んでおりません」と言ったという。

松江城
直政が城主だった島根県松江市殿町にある松江城

【出世】大坂落城後、両将軍と謁見した直政は、両陣での奮戦を誉められ、家康の打飼袋(食べ物やお金を入れる袋)を与えられた。忠直も直政の活躍を激賞し、自分の領内で1万石を与えた。1616年5月6日には、幕府から上総姉ヶ崎1万石の領土と出羽守の官位を与えられ正式な大名となった。
 1624年に忠直が数々の乱行の咎で豊後に配流されると、その関係で直政は越前大野5万石に移封される。1633年にまたも移封され信濃松本7万石へ、そして1638年に出雲松江19万石へ最後の移封がされ、晴れて国持ち大名となった。

【初代松江藩主】直政が松江に来てまずやったことはキリシタン対策である。前の領主である堀尾忠晴・京極忠高らの手ぬるいやり方を批判し、徹底的に弾圧を加えたと言われている。1663年3月25日、幕府からの命で霊元天皇即位の賀使となり上洛した。この大役で気を使ったらしく、11月26日に病となり、1666年2月3日に江戸藩邸で亡くなっている。享年66歳。松江市外中原町の月照寺に葬られた。

松平直政の墓
島根県松江市外中原町179の月照寺にある直政の墓

管理人・・・遊女の息子ということで世間の目は冷たく、直政は冷遇されていたそうです。家康と会見した時も、弟が馬を賜っているのに、直政は何にもなしでしたし。でも最後には出雲・隠岐二国をもらったわけだから終わりよければすべてよしですね。

 こんなに爽やかな感じのする直政ですが、大人になると、『油口』と陰で言われるほど、口の上手さで世の中を乗り切ったそうです。譜代を中心に改易の嵐が吹いていた頃に大名をしてたんですから、仕方が無かったのでしょう。
 山陰中部は西日本では珍しくうどんよりも蕎麦の方が主流なのですが、これは直政達が信州から雲州に来る時に蕎麦を持ってきたからだと言われています。以上、幸村に激賞された松平直政さんでした。ちなみに打飼袋は月照寺にあります。

参考文献:続 山陰の武将・三百藩藩主人名事典、ほか

UPDATE 2002年2月14日
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