青木正玄

(あおきまさはる)

生没年:?〜1632年/ 身分:越前松平家の家臣/ 官位(通称、号):新兵衛

賤ケ岳古戦場の碑
遠雄が奮戦した賤ケ岳古戦場の碑

【主君を変える】青木正照の子。原彦次郎・佐久間盛政・中村一氏・蒲生氏郷と次々に主君を変え、氏郷が亡くなった後は上杉景勝の家臣となった。1600年、関ヶ原の合戦で上杉軍が西軍主力の敗北を知り撤退するとき殿を務め、追撃してきた伊達政宗と直接戦闘しこれを追い返している。

【虚無僧】1601年、上杉家が米沢に移封されると虚無僧となり越前へと戻った。そこで結城秀康に召し出され、大坂の陣で松平忠直に従軍し息子・正次と共に功を立てた。
 その後、正次が亡くなってしまい傷心のため、松平家を辞し京都へ去っている。そこで前田利常が西尾長昌を介して声をかけてきたので、加賀へ移り、5千石という厚遇で前田家に仕えた。1632年7月12日、その波乱の人生を閉じている。

管理人・・・青木新兵衛の名で知られています。彼が越前で召抱えられた理由は、ある日、結城秀康の家臣・阿閉掃部がみんなと集まっている時に「賤ケ岳の戦いで青木新兵衛という男と戦ったが、彼ほどの勇士に会ったことがない」と話した。それを聞いた新兵衛が名乗り出たので、有名になり、秀康から声がかかったとのことです。

参考文献三百藩家臣人名事典戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2002年3月30日
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