津田重久

(つだしげひさ)

生没年:1535〜1620年/ 身分:前田家の家臣/ 官位(通称、号):遠江

山崎の戦いの碑
京都府乙訓郡大山崎町にある山崎の戦いの碑

 最初、足利義昭に仕えていたが、後に明智光秀の家臣となる。本能寺の変・山崎の戦いで奮戦したが、明智軍が敗れたため高野山に逃れた。翌年、豊臣秀吉の家臣となり、賤ケ岳の戦いで活躍する。その後、豊臣秀次の家臣となったが、秀次が自殺させられると京都に蟄居した。
 そのあとに細川藤孝・伊達政宗などからの誘いがあったが、これを断っている。1596年に前田利長の誘いを受けて、6千石で家臣となった。関ヶ原の戦いでは怪我を負うほど奮戦し、大坂の陣では参謀として従軍している。その後、4代藩主・光高の御咄衆となり、1620年に死亡した。

管理人・・・勇将で、兜首を22取り感状を3度ももらっています。

参考文献三百藩家臣人名事典

UPDATE 2002年4月26日
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