多賀秀種

(たがひでたね)

生没年:1565〜1616年/ 身分:浪人/ 官位(通称、号):出雲守

【堀家の重臣】堀秀重の次男で、堀秀政の弟。多賀貞能の婿養子となり多賀姓を名乗る。1582年に父・貞能が明智光秀に応じ所領没収となったため、秀種は兄・秀政の家臣となり8千石を領した。1590年に秀政が亡くなると、豊臣秀長、次いで豊臣秀吉に仕え、大和神楽岡で2万石を領する。

堀秀政の墓
神奈川県小田原市早川にある兄・堀秀政の墓

【浪人】小牧長久手の戦い・小田原征伐・朝鮮出兵などで活躍したが、関ヶ原の戦いで西軍につき、京極高次が籠城する大津城攻めに参加したため、所領没収となった。
 そこで甥・堀秀治を頼って越後に行く。堀家の改易後は京へ行き、大坂の陣では浪人を率いて東軍に参加した。1615年6月に前田利常に6千石で召抱えられ、1616年11月に死亡した。

管理人・・・略歴を見ると大坂の陣当時は前田家の家臣ではないように思われたでしょうが、大坂の陣の最中に利常に召抱えられ夏の陣に参加しているという話もあるので前田家家臣に分類しました。彼は越後在留中に『越後在府日記』なるものを書いたそうです。

参考文献三百藩家臣人名事典

UPDATE 2002年4月23日
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