前田利政

(まえだとしまさ)

生没年:1578〜1633年/ 身分:京都で隠棲/ 官位(通称、号):宗悦

【西軍につく】前田利家の次男。母は利家の正室・芳春院。幼名・又若丸。1593年に豊臣秀吉から能登21万石と従四位下侍従の官位を賜った。1599年に大坂城の詰番衆となり、利家から1万5千石を分与される。
 1600年に関ヶ原の戦いが起こると、8月の大聖寺城攻めに参加するが、9月の再出兵には兄・前田利長の命に従わず、能登から動かなかった。

芳春院
利政が葬られた京都市北区紫野の大徳寺内にある芳春院

【中立】戦後、その行動を徳川家康から責められ領土を没収される。その後、妻・藉(蒲生氏郷の娘)と共に京都に隠棲し宗悦と号した。大坂の陣が起こる直前、豊臣家から加賀・能登2ヶ国を与える条件で誘われたが、それを断っている。その行動を知った家康が10万石を与えると言ってきたが、これも断っている。1633年7月14日死亡。京都大徳寺の芳春院に葬られた。

管理人・・・関ヶ原の戦いで能登を動かなかったのは、真田家と同じように東西どちらが勝ってもいいようにするためだった、大好きな母を江戸に送った利長に対して反感を抱いていた、西軍にとられた人質を見捨てることが出来なかったためだった、など、いろいろな説があります。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版大坂の役、ほか

UPDATE 2002年5月27日
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