高松久重

(たかまつひさしげ)

生没年:1594年頃〜1649年/ 身分:木村隊の部隊長/ 官位(通称、号):内匠

高松嘉重(頼邑)の墓
高松市高松町1756の喜岡寺にある祖父・高松嘉重(頼邑)の墓

【讃岐の豪族】高松憲重の息子。高松家は代々讃岐高松を治めた土豪。祖父の高松嘉重(頼邑)が1585年の四国征伐の時に長宗我部側について戦死したので、憲重は肥後に落ち延びた。後に肥後南部を治めた小西行長に1万石で仕え、朝鮮出兵で先陣を務め功を上げ豊臣秀吉から感状を賜った。
 久重は16歳の時に人を斬って逃亡し、18歳の時に戻って千石を与えられた。しかし20歳で再び去り大坂に移り住み、大坂の陣が起こると大坂城に入り木村重成に属して足軽30人を与えられる。

【大活躍】1614年11月7日、徳川軍が中ノ島に攻め入った時、木村隊は撃って出て応戦した。そこで久重は鉄砲傷を負いながらも敵の物頭を撃ち倒し追い返した。すると敵は中津川に船を出して攻めてきたので鉄砲を放ったが届かないため、久重は一人で進み出て船奉行を撃ち落としている。
 同月26日の今福の戦いでは鉄砲で多数の敵を撃ち倒し活躍した。その時に佐竹軍が堤の上に指物を置いて柵内に退いたので、走りよって奪おうとし敵兵と争いとなったが最終的には一本を奪い取っている。久重はさらに敵を追撃して佐竹軍の戸村義国らと戦い、宇佐美三十郎を討ち取った。その後も何度も功があり重成から感状数枚を受け取った。

大福田寺
三重県桑名市大字東方にある大福田寺

【奮戦】1615年5月6日の若江の戦いでは左備の木村宗明に属して小笠原秀政と戦うがその最中に本隊が敗北し重成も戦死したため、敗兵を集め、馬をなくした兵3人には離れ馬を捕まえて与え、自らは殿を務めて見事に撤退に成功した。この活躍は敵味方から賞賛されたという。

【引く手数多】大坂落城後は蜂須賀家から3千石で招かれるが理由があって断り、浪人となった。だが松平定綱から一族を含めて3千石で招かれたので老分の身分で仕える。
 その後、木村重成に属して後に池田家に仕えていた長屋平太夫と斉藤加右衛門の二人が大坂の陣の頃の戦功に関して口論となったので、証人を頼まれ証明した。1649年正月に死亡。子孫は代々松平家の番頭(大名警護の長)を務めたという。

管理人・・・3千石で招かれるとは勇名を馳せていたということでしょうね。って大坂の陣であれだけ活躍していれば当たり前か。
 今福の戦いで奪った旗についていた扇の家紋を取って自分の家紋としたそうです。佐竹家としては屈辱だったんでしょうね。あとその戦いで槍を合わせた戸村義国とは東方村大福田寺の住職・兼持法印を通して戦いでのことで文通をしたそうです。
 また大坂の陣が起こる前までなのですが、16歳の頃は小西家が滅んでいたのでどこに仕えていたか分かりません。父が讃岐で亡くなっているし(没年不明)再び讃岐に戻ってきているので生駒家だとは思うんですが。
 大坂の陣後ですが、逃れて紀伊に隠遁するが、ほとぼりがさめた頃に故郷の讃岐に戻って生駒家に仕えたという説もあります。

参考文献:桑名人物事典・讃岐人名辞書ほか

UPDATE 2003年12月15日
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