細川興元

(ほそかわおきもと)

生没年:1564〜1619年/ 身分:下野茂木1万石の大名/ 官位(通称、号):玄蕃頭

細川興元の墓
栃木県芳賀郡茂木町大字塩田227の能持院にある興元の墓

 細川藤孝の次男。細川忠興の弟。1577年に松永久秀の属城・片岡城攻めに父や兄に従って出陣し戦功があり織田信長から感状を与えられた。1585年の佐々成政攻めでも戦功があり多くの首級を挙げる。その後、小田原征伐・朝鮮出兵・関ヶ原の戦いなどで兄と共に従軍し戦功を挙げ、細川家の豊前小倉移封にも従うが、兄と仲が悪くなり京都に移り住んだ。
 1608年に徳川家康が二人を呼び出し和解させる。1610年に家康から下野茂木(もてぎ)1万石を与えられた。大坂の陣では酒井忠世に属して天王寺・岡山での最終決戦で首級14を得る。その功で常陸筑波・河内両郡で6200石を加増された。1619年3月18日死亡。下野の能持院に葬られた。

管理人・・・興元の家は墓石がなくその代わりに杉一本を植えて灯篭を建ててそこに没年号を記したそうです。興元の奥さんは立花宗茂の娘です。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2004年5月22日
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