蜂須賀家政

(はちすかいえまさ)

生没年:1558〜1638年/ 身分:隠居中/ 官位(通称、号):阿波守・蓬庵

蜂須賀家政誕生の碑
愛知県江南市宮後町にある蜂須賀家政誕生の碑

【小六の息子】蜂須賀正勝の嫡男。尾張蜂須賀村に生まれる。織田信長、のちに豊臣秀吉に仕えて、姉川の戦い・長篠の戦い・中国征伐・山崎の戦い・賤ケ岳の戦い・紀州征伐で活躍した。四国征伐の際、阿波一宮城攻めなどで功があり、阿波一国18万石を与えられる。
 阿波に入った家政は厳しい政策をすすめたが、それに反対する山間部の土豪の抵抗に遭い鎮圧に6年もの期間を要した。その後も九州征伐で高鍋城を攻め、小田原征伐では伊豆韮山城を攻めて活躍する。朝鮮出兵でも渡海し、浅野幸長の救援を行った。

【豊臣家に心を寄せる】関ヶ原の戦いでは剃髪して蓬庵と号し高野山に行き、息子の至鎮に蜂須賀軍を指揮させる。至鎮が東軍についたため、領土は安堵された(正確には至鎮に阿波が与えられた)。そのまま家政は家督を譲り隠居したが、まだ若い至鎮を補佐している。大坂冬の陣が起こると当初は「私だけでも豊臣家につく」と言ったが、やがて説得され人質として駿府(江戸とも)に向かった(蜂須賀家の去就)。1620年に至鎮が亡くなると幼い忠英が家督を継いだため、その補佐をおこなう。1638年12月30日死亡。徳島県徳島市下助任町の興源寺に葬られた。

蜂須賀家政の像
徳島県徳島市徳島町城内の徳島城趾にある家政の像

管理人・・・関ヶ原の戦いの際の家政の動きについては様々な説があってよく分かりません。関ヶ原の戦いの前に領地を返上して高野山に行き至鎮に兵を任せたとか、自分は西軍について大坂を守備し、至鎮を東軍につかせて戦ったが、東軍が勝ったから至鎮に領地が与えられたとか・・・。
 以上、小六の息子で伊達政宗に「阿波の古狐」と言われるほどの名将(?)だった蜂須賀家政さんでした。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版・戦国武将201裸のデータファイル・阿波人物誌・戦国大名諸家譜

UPDATE 2006年2月5日
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