福島治重

(ふくしまはるしげ)

生没年:1557〜1630年/ 身分:福島家の家臣/ 官位(通称、号):丹波守

三原城
治重が城主を務めた広島県三原市城町にある三原城

【正則の一族?】名前は正澄とも。尾張海東郡花正庄二寺村で生まれる。福島正則の叔父とも言われているが詳細は不明。最初、山瀬久之亟と名乗っていたがのちに福島丹波と名を変える。正則の参加した数々の戦に従い、賤ケ岳の戦いで正則が5千石を与えられると1500石を分け与えられるという厚遇を受けた。関ヶ原の戦いでも奮戦したが、片足を怪我して不自由になってしまう。正則が安芸広島に移封されると治重は備後三原城3万石を与えられた。

妙心寺
治重が葬られた京都市右京区花園妙心寺町1にある妙心寺

【広島城明け渡し】大坂冬の陣の際に豊臣軍につくように進言するが受け入れられなかった。陣の最中は広島城の留守をする。1619年に福島家が広島城無断修築を咎められて広島城を明け渡さないといけなくなった際に、幕府の上使に対して「例え将軍が来られても主君の命令が無ければ渡せない」と断り、上使が改めて正則の書状を持ってくると納得して渡した。これは後世の語り草となり、大石内蔵助の播磨赤穂城明け渡しの手本になったとも言われている。
 その後、浪人となった治重は尾張徳川家、紀州徳川家、加賀前田家から数万石の厚遇で誘われたが、「二君に仕えず」と断り京都の東山に閉居した。1630年死亡。京都市右京区花園の妙心寺に葬られた。

管理人・・・治重には関ヶ原の戦い後にこんな話しがあります。正則が安芸備後二国を賜る際に治重は他の重臣2人と共に徳川家康の前に出ましたが、3人とも障害があったので周囲の者達が笑いました。これを家康は「笑うな。誰もが勇士だぞ」と注意したそうです。

参考文献:広島県人名事典(芸備先哲伝)・戦国武将のふるさと美和

UPDATE 2006年4月19日
Copyright (C) 2006 Tikugonokami.