山岡重長

(やまおかしげなが)

生没年:1553〜1626年/ 身分:伊達家の家臣/ 官位(通称、号):志摩

耳塚
京都市東山区にある朝鮮出兵の際に討ち取った兵士の耳や鼻を葬った耳塚

【強奪】小成田長俊の息子。最初、小成田総右衛門と名乗った。父・長俊は重長が3歳の時に小斎城を攻めている最中に戦死する。重長は奥小姓となり伊達輝宗に仕えた。その後、各地の戦いで功を挙げる。
 朝鮮出兵で伊達軍が釜山にいた際、朝鮮軍の若武者が一騎で陣を攻撃してきた。伊達政宗の命令で重長がその人物を捕らえると婦人だったので領地に連れ帰り妻としている。

【改名】1594年に政宗について行き、豊臣秀吉と芳野で会った際に山岡志摩と改名するように命じられた。後に奉行となり3千石の領主となる。大坂夏の陣では家臣8人と一緒に戦い首級を得た。1626年4月死亡。玉造郡岩出山の松窓寺に葬られる。

参考文献:伊達政宗のすべて・仙台人名大事典

UPDATE 2003年10月4日
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