和久是安

(わくぜあん)

生没年:1678〜1638年/ 身分:豊臣家の家臣/ 官位(通称、号):半右衛門

和久一族の墓と碑
宮城県仙台市若林区荒町35の仏眼寺にある和久一族の墓と碑

 和久宗是の子として摂津大坂で生まれる。和久是信の弟。近衛信尹の門弟となり三藐流書道の奥義を極めた。豊臣秀吉・秀頼に仕えて祐筆となり摂津太田郡に領地を与えられる。
 1614年10月、伊達政宗と下野小山で豊臣家の使者として会い、味方するように依頼したが拒否された。そして、そのまま伊豆三島に連れて行かれ監禁される。この時、家臣が主君に忠義を尽くすのは当然と主張して幕府に好印象を与えた。
 大坂落城後は徳川秀忠の許しで伊達家の家臣となり千石を与えられ栗原郡沼倉村に住んだ。1638年8月21日死亡。栗原郡宮野村の妙圓寺に葬られた。

管理人・・・是安の父の宗是は1590年の小田原征伐の時に伊達政宗に出陣の催促の使者として行っています。政宗は時代の流れを感じたことでしょう。
 その小田原征伐の時に政宗が秀吉にあった時、宗是が非常に厚遇したので感謝しており、幕府に是安の助命を頼んでいます。
 また伊達家では書道の先生となって伊達家の者達に指導しています。

参考文献:仙台人名大事典・戦国人名事典 コンパクト版大阪人物辞典

UPDATE 2003年10月13日
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