関一政

(せきかずまさ)

生没年:?〜1625年/ 身分:伯耆黒坂城5万石の大名/ 官位(通称、号):長門守

【平氏】関盛信の次男。幼名・四郎。関氏は平資盛の末裔で、平家の残党狩りで捕まるが許され(執権)北条氏に仕えている。室町・戦国時代は伊勢亀山城主で伊勢国司の北畠氏に仕え、元亀年間に盛信が伊勢国内で力を伸ばしていったが、織田信長の伊勢侵攻の際に降伏し、長島一向一揆などに参加した。小牧長久手の戦いでは豊臣秀吉についている。

亀山古城
一政が城主だった三重県亀山市若山町にある亀山古城

【家督相続】一政は最初、比叡山の僧だったが、長島一向一揆で長男が亡くなったため、嫡子となった。その後、伊勢国内で転戦して亀山城を守り、やがて蒲生氏郷の与力となって九州征伐・小田原征伐などに従軍する。陸奥の九戸政実討伐に功があった。蒲生氏郷の会津転封についていき白河城を与えられる。
 1593年に盛信が亡くなると家督を相続する。1598年には信濃飯山城で3万石を領し、豊臣家直轄領川中島の代官を務めた。1600年には川中島に森忠政が来たため、美濃多羅城に移封される。

【内紛】関ヶ原の戦いでは当初、西軍に属すが後に東軍に転じ旧領伊勢亀山城に返り咲いた。1610年、伯耆米子の中村一忠が改易されたため伯耆黒坂5万石に移封される。大坂冬の陣では京橋口を担当し、夏の陣でも京橋口を攻め首級52を獲った。1618年に内紛のため改易される。1625年に死亡。

管理人・・・上手いこと世の中を渡ったんですが、最後に幕府の外様つぶしにあって凋落してます。息子・氏盛が近江蒲生で五千石を与えられ家名は存続しています。

参考文献戦国人名事典 コンパクト版三百藩藩主人名事典、ほか

UPDATE 2001年8月29日
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