朽木元綱

(くつきもとつな)

生没年:1549〜1632年/ 身分:近江朽木9500石の領主/ 官位(通称、号):信濃守

朽木陣屋
滋賀県高島市朽木野尻にある朽木陣屋

【名門】朽木晴綱の息子。母は公家・飛鳥井雅綱の娘。朽木氏は近江佐々木氏の一族で、鎌倉幕府から近江高島郡朽木荘に領地を与えられて朽木姓を名乗ったことから始まる。朽木は京と若狭を結ぶ交通の要所のため度々周辺の戦乱に巻き込まれ、また京から近いことからそこを追われた歴代の室町将軍を保護している。

【信長を救う】元綱は1567年に足利義昭が三好三人衆に本國寺で襲われた時に急いで駆けつけ防衛に回り、後から駆けつけた織田信長らと共に撃退に成功している。この功で義昭から吉光の刀を授かった。
 1570年に信長が朝倉義景を攻めている最中に浅井長政の裏切りによって帰路を塞がれた時に、信長が朽木に逃れてくるとこれを助け京までの道を案内している。本能寺の変後は豊臣秀吉に従い、1590年に従五位下河内守に任ぜられた。

朽木氏歴代の墓
滋賀県高島市朽木岩瀬374の興聖寺にある朽木氏歴代の墓

【裏切り四将】関ヶ原の戦いでは徳川家康に通じるが、周辺を西軍に囲まれていたために石田三成に協力する態度を見せて小早川秀秋らと共に美濃松尾山に陣を構えた。秀秋が裏切るとこれに呼応し西軍を攻める。戦後、近江高島郡朽木と山城愛宕郡久多に合わせて9590石を与えられた。
 大坂冬の陣では子の宣綱と共に永井直勝に属して従軍する。夏の陣では暗峠(大阪府東大阪市と奈良県生駒市との境にある、生駒山地の峠。近世、暗越奈良街道の交通の要地)を守備した。この際、宣綱は「ここを守っていれば敵に会うことはないだろう」と従者わずか2〜3人連れて家康の本陣へ向かっている。1616年に剃髪して牧斎と号し、隠居料3240石を与えられた(というか9590石から分与しただけ)。1632年8月29日死亡。法名・福峯米徳長久庵。

管理人・・・状況が常に不安定な場所で何代にも渡って土地を守ってきただけあって、元綱の世の中の情勢に対する嗅覚は並じゃあなかったと思います。そういうものがなければあっという間に滅亡していたことでしょう。
 信長が逃れてきた時に、元綱が甲冑を着て兵を引き連れて迎えに行くと信長にに疑われたため、甲冑を外して疑いを解いたという有名な話があります。
 ちなみに孫は丹波福知山3万2千石の大名にまで出世しています。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版戦国大名諸家譜・近江人物誌

UPDATE 2005年2月1日
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