平岡頼資

(ひらおかよりすけ)

生没年:1605〜1653年/ 身分:美濃徳野1万石の大名/ 官位(通称、号):石見守

平岡頼資の墓
岐阜県可児市兼山の専養寺にある頼資の墓

 平岡頼勝の息子として河内で生まれる。頼勝は諸国を浪人したのちに小早川秀秋に仕え、関ヶ原の戦いで徳川軍に着くように説得し、その功で頼勝は備前国内で2万石を与えられた人物。しかし讒言によって再び浪人となったが、そこを徳川家康に拾われ美濃国内に1万石を与えられ美濃徳野に陣屋を築いた。
 頼資は頼勝が1607年に亡くなってしまったため僅か3歳で家督を継ぐ。その後に石見守に任ぜられた。1653年1月8日死亡。岐阜県可児市兼山の専養寺に葬られた。

管理人・・・頼資が亡くなった後、長男の新十郎と次男の市十郎が家督を争いましたが、頼資の行ないが良くなかったという理由で二人とも跡を継ぐことを許されませんでした。しかし祖父の頼勝の功で次男の市十郎(頼重)に1千石が与えられています。
 大坂の陣の時に何をしていたのかさっぱり分かりません。出陣をした記録もどこかで守備をした記録もどこにもないので。サイトに載せたのは大名配置図にあったという理由だけで、、、。

参考文献三百藩藩主人名事典寛政重修諸家譜戦国人名事典 コンパクト版、ほか

UPDATE 2004年7月2日
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