蒲生忠郷

(がもうたださと)

生没年:1603〜1627年/ 身分:陸奥会津60万石の大名/ 官位(通称、号):下野守

蒲生氏郷の像
滋賀県日野町にある祖父・蒲生氏郷の像

【名将の孫】蒲生秀行の息子。母は徳川家康の三女振姫。蒲生氏郷の孫にあたる。1612年に秀行が亡くなったため僅か10歳で家督を継ぐ。幼いまま家督を継いだため統率力が弱く、しばらく家臣内での揉め事が絶えなかった。
 大坂の陣では江戸の留守を命じられ参加していない。大人になった忠郷は城内に東照宮を造ったり、将軍を迎える時に黄金の茶道具を用意するなど出費を重ねた。だがその頃の東北地方は飢餓が襲い藩の経済を圧迫し領民などの生活は非常に苦しいものとなっていく。

蒲生忠郷の墓
会津若松市中央2丁目の高厳寺にある忠郷の墓

【改易】1626年8月、徳川家光にお供して上洛した後、領土に帰った忠郷は疱瘡(天然痘の別称。伝染病で高熱を発し、あばたなどの後遺症を残す)にかかって、それがもとで翌年の1627年1月4日死亡した。法名・見樹院殿得誉玄光。会津若松市の高厳寺に葬られる。
 忠郷は嫡子がなく養子を立てる時間もなかったので改易となったが、弟の忠知が出羽上山4万石の領主となっていたので彼が伊予松山20万石に移封され蒲生家を継いだ。

管理人・・・忠郷は飢餓の時にはもち・さけ・とうふなどの売買と製造を禁止して、その決まりを破った犯人を知らせた者にはその犯人の財産を与え、当の犯人は死刑にしたそうです。そんな密告社会の造ったことといい、出費を重ねたことといい、いい話が伝わってないです。私が知らないだけかもしれませんが。

参考文献三百藩藩主人名事典戦国人名事典 コンパクト版

UPDATE 2004年1月12日
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