丸橋盛澄

(まるばしもりずみ)

生没年:?〜1651年/ 身分:長宗我部盛親の子?/ 官位(通称、号):忠弥

由比正雪の首塚
静岡市の菩提樹院にある由比正雪の首塚

【盛親の息子】長宗我部盛親の息子。盛親の妾に藤枝(ふじえ)という者がいて、彼女から生まれた息子に四万太郎、吉十郎という兄弟がおり、弟の吉十郎がのちの盛澄にあたる。大坂の陣が起こると兄の四万太郎は盛親と共に大坂城に篭って亡くなったが、盛澄は藤枝と一緒に彼女の故郷である出羽の最上に逃れた。
 そこで藤枝の父で最上家の家臣だった丸橋曲流の保護を受け、曲流の死亡後、元服して丸橋忠弥盛澄と名乗る。

【幕府の転覆を狙う】やがて元・最上家の浪人で江戸で北条流軍学と日置(へき)流弓術を修めて道場を開いて成功した柴田三郎兵衛という者から招きを受けたので、江戸に行き得意の宝蔵院流の道場をお茶の水に開いた。
 やがて由比正雪と知り合い、幕府の転覆を計画し、実行に移そうとするが(慶安の乱)、盛澄の弟子からの密告で捕らえられて磔にされて1651年8月10日に処刑される。

盛澄の墓
東京都豊島区高田2丁目12-39の慈眼寺金乗院にある盛澄の墓

管理人・・・盛親の息子という説が良く知られていますが、上野の出身で盛親とは関係ないとの説もあります。
 最上家を出て江戸に移ったと書いていますが、一度前田家の家臣になって浪人してその後に江戸に移って道場を開いたとの説もあります。
 盛澄の処刑の時に時世の句を残そうとしましたが『雲水の行方は』と口にしたところで槍を刺されて処刑されてしまったと私が持っている資料ではなっています。しかしネットで調べると彼の読んだ時世の句が全部残っているみたいです。
 兄の四万太郎は生き残り幕府に仕えて加藤一郎右衛門と名乗り、慶安の乱の時に盛澄の兄ということで投獄されたという説もあります。
 と、こんな風にいろんな説があって彼のことはよく分かっていないんですよ〜〜^^;;;
 また盛澄が捕らえられる時のことですが、彼が槍の名人だったのはよく知られていたため、奉行所の役人達は長屋の前で「火事だ〜」と騒いで、驚いて槍も持たずに飛び出してきたところを捕らえたそうです。
 以上、盛親と同じく悲惨な最期を遂げた丸橋忠弥さんでした。

参考文献日本奇談逸話伝説大事典、ほか

UPDATE 2005年2月2日
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