戸波親清

(へわちかきよ)

生没年:不詳/ 身分:長宗我部隊の部隊長/ 官位(通称、号):右衛門尉

荒木又右衛門の墓
鳥取県鳥取市新品治町176の玄忠寺にある弟子・荒木又右衛門の墓

【長宗我部一族】戸波親武の息子。通称・十兵衛。別名に長宗我部主水親吉や又兵衛貞之などがある。祖父は長宗我部国親(元親の父)の弟。父の親武が1570年に土佐の高岡郡戸波城を落とし、そこの城主に任命されたため戸波姓を名乗った。1589年頃に親武が死亡したため跡を継ぐ。

【又右衛門の師匠】関ヶ原の戦いで長宗我部家が改易された時、浦戸城で籠城を主張したが受け入れられなかった。大坂の陣で盛親の元に駆け付け、兵40人を率い八尾の戦いで奮戦する。大坂落城の時、盛親に従ったが山城国八幡付近で離れ離れとなってしまう。
 1626年に藤堂高虎に150石で仕えた。荒木又右衛門が仇討ちの時に刀が折れたのを批判して、それ以降、又右衛門は親清の弟子になったと言われている。

管理人・・・あの荒木又右衛門の師匠とは、、、。剣の達人だったんでしょうか? そうだとしたら、その実力で藤堂隊を苦戦させたことでしょう。

参考文献長宗我部元親のすべて戦国人名事典 コンパクト版・藤堂高虎家臣辞典

UPDATE 2001年8月31日
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