秋元長朝

(あきもとながとも)

生没年:1546〜1628年/ 身分:上野惣社1万石の大名/ 官位(通称、号):越中守

秋元長朝の墓
群馬県前橋市総社町の宝塔山古墳にある秋元長朝の墓

【上杉氏と共に】秋元景朝の息子。秋元家は武蔵深谷城主である上杉家の家臣で、伊原家や岡庭家と共に武州深谷三人衆と呼ばれる。長朝も上杉家に従い、小田原征伐の時に主君の憲盛が小田原城に篭ると深谷城を守備した。
 豊臣軍相手に奮戦したが、小田原城が開城したため降伏する。1592年に井伊直政の勧めで徳川家康に仕え、直政の麾下に属し上野惣社に移り住んだ。

【天狗岩用水】関ヶ原の戦いでは戦前と戦後に上杉景勝への使者として赴き降伏を勧める。これらの功で加増され1万石の大名となった。1604年に領内の水が乏しいため、隣の領主である井伊直継に用水路の建設を願い出たが相手にされなかった。そこで長朝は自らの指揮して利根川からの引水に成功し、収穫を倍増させる。
 大坂の陣に従軍し功があった。1628年8月29日死亡。法名・江月院殿巨岳元誉大居士。群馬県前橋市総社町の光厳寺に葬られた。

力田遺愛碑
群馬県前橋市総社町の光厳寺にある力田遺愛碑

管理人・・・利根川からの用水路を造った時にこんな話しがあります。どこからか老人が現れて労働者を指揮して岩石を破砕するといなくなったので、里の者達は神が工事を助けたと言い合い、その用水を天狗岩用水と呼ぶようになったそうです。
 長朝のこの功績は地元で称えられ『力田遺愛碑』なるものが江戸時代に領民に建てられています。ネットで検索すると今でも地元では有名な昔話の一つみたいです。ただ天狗岩の話が私が持っている資料とちょっと違いますが、、、。
 あと大坂の陣当時の石高がよく分かりません。『日本の戦史 大坂の役』では1万石になっていたのでそのまま載せました。

参考文献三百藩藩主人名事典・上野人物志・大坂の役、ほか

UPDATE 2005年1月17日
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