第九章:名和氏、九州へ

【再び当主を失う】その後、後醍醐天皇は足利尊氏と一度は和解したが、密かに京都を抜け出して大和の山奥・吉野で朝廷を立てて南北朝の動乱となる。後醍醐天皇から恩恵を受けた名和氏は長年が亡くなった後も南朝方として戦っていたが、1338年5月22日に長男の義高が北畠顕家とともに泉州堺で戦死してしまう。

鳥取県西伯郡大山町名和坪田にある名和長年、義高らの墓

【筑後守の合戦】それでも名和氏は幼主・顕興を盛り立てて山陰や吉野で戦うが、1358年に一族は領地として与えられていた九州肥後の八代へ移動する。すでに山陰の領地は山名氏などに奪われていたので名和氏はそこにしか移るところがなかったのだ。
 翌年の九州最大の合戦、筑後守の戦いでは菊池武光らとともに北朝方を破っている。

管理人・・・なぜ吉野から九州に移ったのかがよく分かりません。

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