第八章:長年死す

【尊氏の逆襲】いったん九州に落ちた足利尊氏は兵を集め、官軍の菊池武敏と多々良浜で戦った。そしてこれを破りまたたく間に九州を平定して再び上洛を開始した。1336年5月25日には上陸を阻止しようとした新田義貞・楠木正成と足利軍が湊川で激突したが、官軍は敗北してしまう。

【京都奪還計画】後醍醐天皇は再び比叡山に移動し、1336年6月14日足利尊氏は光厳天皇を擁して上洛を果たした。その一方で比叡山では一進一退の攻防を繰り広げていた。劣勢となった後醍醐天皇方は名和長年と新田義貞で京都に攻め込み奪回する計画を立てる。

京都市上京区大宮通一条下ル梨木町の名和児童公園内にある名和長年戦死の地

【鬼神・名和長年】6月30日、出陣した長年は途中京童に「三木一草と呼ばれて天皇の恩を受けた3人は戦死したのに(楠木正成は湊川の戦いで、千種忠顕は雲母坂で討ち死。結城親光は降伏を装って大友定載に斬り付けた後に戦死していた)名和長年だけがまだ生き残っている」と言われて、「今日の戦いに負けたら死のう」と独り言を言ったという。
 京都に攻め込んだ名和軍と新田軍だったが、長年は敵に取り囲まれて孤立してしまう。得意の弓で奮戦し数百騎の敵を撃ち落とす大奮戦をした長年だったが最後は三条猪熊のあたりで九州の松浦党の草野将監秀永に討ち取られた。享年は不明だが50歳過ぎだと思われる。

管理人・・・この最後の戦いでは長年は上記のように奮戦・奮戦・また奮戦したってことになっています。本当かどうかは分かりませんが。
 長年が死んでも名和氏一族、そして南北朝の泥沼の戦いはまだまだ続きます。

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