第七章:尊氏の野望

【中先代の乱】1335年、鎌倉で最後の執権北条高時の息子・時行が兵を挙げて足利直義を一蹴して鎌倉を占領した。これを源氏再興の機会だと見た足利尊氏は勅許を待たないで勝手に鎌倉に向かって出発した。三河の矢作で直義と合流し3万騎の兵で北条軍を破り鎌倉に入るとそのままそこに居座った。

【尊氏対義貞】そんな尊氏に対して後醍醐天皇は新田義貞を討伐軍として鎌倉に向かわせた。足利軍と新田軍は三河の矢作川で激突し新田軍が勝利を得た。そのまま新田軍はさらに東進したが、再び結集した足利軍の逆襲を受け敗北してしまう。

【勢多の戦い】1336年1月、西進する足利軍を止めるため、名和長年らは近江の勢多に陣を構えて迎え撃った。しかし脇屋義助の守る山崎が敗れたため、足利軍は京都に入り、後醍醐天皇は比叡山に逃れた。
 長年は足利軍を破らずに天皇のもとに帰る訳にはいかないと京都に入ったが、名和軍の旗印を見た西国の兵士達は一斉に襲い掛かってきた。しかしこれを17度まで破り100騎あまりになりながら内裏に行き、伏し拝んでから天皇のもとに向かったという。

【尊氏、九州に落ち延びる】その頃、奥州の北畠顕家が尊氏を討つため大軍を率いて西進しており、1月27日に京都を取り返すために名和長年や楠木正成らとともに攻撃をしかけた。油断していた尊氏が戦場に兵を送らなかったので足利軍は大敗し九州へと落ち延びた。

管理人・・・名和長年あんまり活躍していないので書くことがないな、、、。

Copyright (C) 2004 Tikugonokami. All rights reserved.