第五章:凱旋

【尊氏、反旗を翻す】その頃、畿内では赤松円心が幕府軍と一進一退の攻防を繰り返していた。そこで後醍醐天皇は千種忠顕を頭中将に任じて中国地方の大将として京都に向かわせた。最初は千騎程度だったが途中で膨れ上がって20万もの大軍になった。しかしそれでも戦況は動かなかった。
 その頃、名越高家と足利尊氏の軍勢が幕府の援軍として上洛途中にあった。しかし尊氏は源氏の再興の志と、不満が多いにあったため謀反を起こす機会を待っていた。名越軍は山陽道を足利軍は山陰道を進んだが、高家は赤松円心との戦いで戦死し、尊氏は勅命をいただいて反旗を翻したため幕府軍は大打撃を受けた。

群馬県新田郡尾島町大字世良田3113-9の東毛歴史資料館にある新田義貞の像

【六波羅滅亡】足利軍を加えた官軍は六波羅を攻め立てて、幕府軍はとうとう光厳天皇を含む公家達を奉じて落ち延びた。しかし近江で幕府軍の指揮官達は逃げ延びることも出来なくなり自害して果ててしまった。

【京都へ】京都が官軍の手に落ちたため、ついに後醍醐天皇は彼がいなかった間の公家の人事が無効であったことなどの詔を発し5月23日に京都に向かった。その行中、名和長年は帯剣の役につき、名和一族は天皇の警護の役目をした。その頃、新田義貞が蜂起して鎌倉に攻め入り幕府を滅亡させて完全に天下は後醍醐天皇のものになっていた。

管理人・・・長年は晴れがましい気分だったでしょうね。

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