第三章:名和長年登場

【配所】隠岐に流された後醍醐天皇であったがそれでも幕府討伐を諦めず密かに山陰の武士達への協力を求めた。1333年になると播磨の赤松円心や肥後の菊池武時など西国の武士が幕府に反旗を翻し、吉野山では天皇の息子・大塔宮護良親王が奮戦していたので、後醍醐天皇はなんとか隠岐を脱出しようとした。そこで天皇の警護をしていた佐々木義綱を味方にし出雲の豪族である塩谷高貞のところに向かわせて協力するように伝えた。しかし高貞は態度を明らかにしなかった。

【脱出】1633年2月24日、待てなくなった後醍醐天皇は一緒に流されていた千種忠顕らとともに隠岐を脱出した。途中で追手の船に追いつかれたが、後醍醐天皇は干し魚の下に隠れた後、船頭が「怪しい船が出雲を目指して進んでいた」という嘘をついて、それを追手の船が信じたため難を逃れることができた。
 後醍醐天皇らは最初出雲の杵築浦を目指したが西風に流されて伯耆国の名和湊についた。

【長年起つ】名和湊につくと千種忠顕が先に上陸し道行く人に「この辺りに武勇で知られた者はいないか」と訪ねると「有名な武士ではないですが名和長年という財産があり思慮に富んだ人物がおります」と答えた。そこで忠顕は名和氏の館に行き、『今天皇が湊に来られて、その方の武勇を聞き及んで頼みとされている。速やかに迎えに来るのだ』と言った。
 この時名和一族は酒宴の最中だったが、あまりのことで答えることが出来なかった。そこに長年の弟である長重が進み出て「昔から今に至るまで人の望むところは富と名誉です。たとえ屍を戦場にさらすことになっても名を後の世に残すのは名誉なことです」と言ったので、名和一族は天皇を奉じて挙兵することを決意した。

鳥取県西伯郡大山町名和坪田にある名和氏館跡

管理人・・・こんな風に運良く天皇が流れ着いたので出世街道を進むことになる名和長年ですが、実はこれは突然のことではなく前もって計画されていたという説もあります。
 まあそれはそれとしてもし流れ着いた先の武士が幕府に協力して捕まったりしたら歴史は大幅に変わったんでしょうね。

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