約束の松

 長年が幼かった頃、牛を引いた童が歌を歌いながら長年の前を通り過ぎた。長年は後を追って童に「私をその牛に乗せて川端まで行かせてくれ」と頼んだ。童が「乗せてもいいが駄賃には何かをもらいますよ」と言って来たので、長年は自分の家を見て門に生えた松を指し「どの樹でも望みどおりにしていい」と答えた。それを聞いた童は喜んで川端まで乗せて行った。
 3年後一人の男が童を連れて名和家に来た。そして長年の父・行高に向かって「子供が前に約束をしたというが、それはそちらの息子さんの戯れで本気ではないと言い聞かしているのだが納得しない。どうしてくれるのですか?」と詰め寄った。そこで行高は「納得しないのは当然だろう。約束したことに間違いがないというのなら松を切らせて渡そう」と門前になる大樹の松を木こりに命じて切らせて取らせたという。

管理人・・・律儀な行高の性格がうかがえます。そんな父の教育を受けたから長年、そして名和氏はいつまでも南朝のために尽くしたんでしょうね。

武田家の家臣

 名和一族の中で信濃に逃れて武田家の家臣になったものがいた。その子孫である名和四郎右衛門は戦国時代に武田家が滅亡すると山形に渡り、やがて帰農し名主となったという。

管理人・・・その子孫の方はいまでも山形県におられるそうです。

天皇の女官

 1333年の夏、伯耆の国に一艘の船が着いて、そこから若い女性を下ろして去っていった。そして女性は通りかかった男に「ここはなんというところですか」と聞いた。すると男は「ここは伯耆国名和に近い阿弥陀河原というところです」と答えた。
 男は暑い中に海岸にいさせるのも不憫に思い女性を松の木陰まで案内した。そこで女性は自分のことを語り始めた。「私は後醍醐天皇にお仕えしていた女官で、天皇様の後を追ってここまできました。天皇様はどうされたのでしょうか」
 男が「天皇様は船上山の戦いで勝利されて京都に戻られました」と言うと、女性は泣き始めたので、「何もないところですが私の家に来て保養してください」と家に案内した。
 そこで女性は手厚い看護を受けたがついに亡くなってしまった。田舎料理のかんぴょうのはらわたを食べたのが良くなかったのだという。彼女の霊を慰めた神社が今でもある。

管理人・・・らしいのですが私は行ったことがないです。

注連縄

 後醍醐天皇が名和氏の館に来たときに戸口に張ってあった注連縄が冠にあたって冠が落ちてしまった。名和氏は申し訳なく思ってそれを川に捨ててしまった。その地区には正月に注連縄を飾らない習慣が残っているという。

管理人・・・正月でもないのに注連縄を飾っていたのは高貴な人を迎えるためのためだったそうです。

汗入の地名

 後醍醐天皇が山陰から京都に凱旋する途中、「ああ汗入った」ともらしたのでそれからその周辺の地区(現在の西伯郡の一部)は『汗入郡』と呼ばれるようになったという。

管理人・・・その前から汗入郡だったはずですが、、、。それはそうと汗入という地名は今でも使っていて『汗入地区大会』などのスポーツ大会が小学校で行われています。

陣構

 名和長年が後醍醐天皇を連れて船上山に向かう途中、第一陣を構えた場所を『陣構』と呼ぶようになった。

管理人・・・そこは今でもその地名が残っています。他にも後醍醐天皇が渡った橋を『王橋』、天皇が手を洗った淵を『御手洗淵』と呼ぶなど後醍醐天皇にまつわる地名が大山町にはたくさん残っています。

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