伊勢馬場・西光寺表の戦い

長宗我部軍:香川親和(一万二千)
敵:香西佳清(一千強)

 1582年6月の本能寺の変で織田信長軍の四国征伐は頓挫する。この機に乗じて長宗我部元親は讃岐攻めを再開した。同年7月、香川親和を大将に讃岐の武将・羽床資載と土佐・伊予・阿波の兵を加えて香西佳清の領内に侵攻。しかし佳清の居城・藤尾城を目指す途中、香西資淳植松往正が鉄砲隊を潜ませ奇襲をかけてきたため一旦退却した。

 しかし体勢を建て直した長宗我部軍は藤尾城攻略のため再び進撃する。同年8月5日朝、城南の伊勢馬場で両軍の主力が激突。香西軍の先鋒・三百に対して長宗我部軍は六千余り。地の利を活かして奮闘した香西軍だが、数に勝る長宗我部軍が圧倒。退却を余儀なくされる。
 勢いに乗る長宗我部軍は藤尾城の搦手・西光寺表に攻め込む。ここでも香西軍は敵を攪乱させるなど奮戦するが敗北。続いて天神郭も破られ藤尾城は落城寸前となった。
 しかしここで香川信景が両軍の戦闘を中止させる。以前、信景が三好氏に攻められた際に香西氏の仲介で和議が成ったという経緯があったためといわれる。翌5日、信景の仲介で佳清は降伏し戦いは終わった。

高松市香西本町465の宇佐八幡宮。藤尾城跡に建っている
藤尾城跡
UPDATE 2011年6月25日
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