荒田野の戦い

長宗我部側?:細川真之(?)
敵:三好長治(?)

 阿波細川家を継いだ細川真之だったが三好家の冷遇に不満を持っていた。1576年12月5日、三好長治が他国との戦いで疲弊しているのを見て勝瑞城を抜け出し飯谷(井伊谷)の福良連経を頼った。連経は仁宇谷に茨ヶ岡城を築いて真之を保護する。
 1577年3月初旬、長治は真之を攻めるため荒田野まで出陣する。しかし仁宇谷までは山越えで道が険しく容易に攻めることができなかった。すると一宮成祐伊沢頼俊らが真之に応じて兵を挙げ長治を背後から脅かした。長治は撤退し今切城に入ったが成祐・頼俊らが二千の兵で攻撃したため支えきれず少数の家臣と共に脱出し、土佐泊城主・森村春に救援を求める。しかし村春は悪天候で待ち合わせ場所を間違えてしまい救援に行けなかった。仕方なく長治は船で淡路に逃げようとするが敵に囲まれてしまい、同年3月28日に自害して果てる。
 その後も阿波は長治の遺臣及び長治の跡を継いだ十河存保と、真之に味方する反三好勢力の戦いは続き、反三好勢力は阿波に侵攻していた長宗我部元親と結びついている。

徳島県那賀郡那賀町和食郷八幡原茨ヶ岡にある茨ヶ岡城趾
茨ヶ岡城趾
UPDATE 2015年9月19日
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