蜷川親長(1530〜1607年)

官位・通称:新右衛門・道標
 通り名は蜷川道標。長宗我部元親の縁戚で妻は斎藤利三の姉妹。蜷川氏は物部氏の流れを汲む宮道氏を祖とし、宮道親直が越中新川郡蜷川荘に住み地名を姓としたという。代々、足利幕府に政所代として仕える。
 親長も丹波国船井郡桐野河内を所領とし足利義輝に仕えていたが、足利幕府が衰退すると年貢も滞り経済的に困窮。1574年前後に元親を頼って土佐に下向し長岡郡江村郷蓮如寺村に移り住む。元親が京都天龍寺の住職・策彦から法名を授かることを希望した時、在京時に寺に出入りしていた親長が使者となり望みを叶えている。
 有識故実・連歌に通じ、1579年に元親・香宗我部親泰らが参加した連歌会では宗匠を務めた。『長宗我部元親百箇条』の作成では、朝鮮出兵などで多忙だった元親を補佐し深く関わったと考えられている。
 長宗我部盛親の改易後、浦戸一揆が起こると桑名一孝らと相談して鎮圧している。その後、徳川家康に召し抱えられた。1607年5月に死去。子孫は徳川幕府に仕えている。

京都市左京区浄土寺真如町82の真如堂に建つ親長の墓
親長の墓
UPDATE 2012年8月4日
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