金子元宅(1551?〜1585年)

官位・通称:備後守
 金子元成の息子。金子氏は武蔵七党の一つ・村山党の一族で、武蔵国入間郡金子を本拠地としていた。その後、弘安年間に金子頼広が、伊予国新居郡で地頭職を任じられ移り住んだ。それが伊予金子氏の始まりといわれる。
 伊予金子氏は元成の時代に頭角を現し、東予を支配した石川氏の筆頭家臣となっている。元宅も石川家中で実権を握った。毛利・長宗我部両氏と誼を通じていたが、1578年に大西上野介(頼包)を通じて長宗我部元親に降り、人質を差し出している。
 四国征伐の直前、石川家中で毛利軍との和戦の議論が行なわれた際、元宅は抗戦を主張。
「昨日は長宗我部に従い、今日は小早川に降る。土佐の人質を見捨てて他人に後ろ指を指されるのは武士の本意ではない」
 皆の賛同を得た元宅は主力を高尾城に集め、小早川骭i率いる大軍相手に奮戦。しかし衆寡敵せず落城寸前となったため、7月17日に城を焼き払い、野々市原に打って出て玉砕。元宅も自害している。討ち取られたとの説もある。法名・慈眼寺殿威峰宗雄大居士。

愛媛県新居浜市西の土居町2丁目16−47の慈眼寺にある元宅の墓
元宅の墓
UPDATE 2010年12月18日
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