久武親定(1489?〜1583?年)

官位・通称:肥後守・昌源
 土佐久万城主。古くから長宗我部氏に仕えた譜代の家臣だといわれているが、実は本山氏の一族で国親の勢力拡大に伴って服属したという説もある。一宮郷土東を領地としており、国親元親の重臣として仕えた。
 元親が土佐久万城が落とすと城主となる。渡川の戦いでは老齢ながら従軍している。この時、首二つを獲って郎党に持って行かせようとしたが、長男・親信に
「一軍の将が首を獲って手柄顔をするのは恥ずべきことです」
 と窘められている。
 土佐統一戦が終わると本領の土東に隠居。1583年2月13日に亡くなっている(異説有り)。

高知市西久万の久万墓地公園内に建つ親定夫妻の墓
親定夫妻の墓
UPDATE 2012年4月21日
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