波川清宗(?〜1580年)

官位・通称:玄蕃
 土佐波川城主。通り名は波川玄蕃。波川氏は鎌倉時代に土佐に来た蘇我国光の末裔で、高岡郡波川郷を支配していた(戦国時代、波川郷は吾川郡ではなく高岡郡に属していた)。
 清宗は本山氏の南進を危惧。同じく本山氏と対立していた長宗我部国親の娘(元親の妹・養甫尼)を1559年頃に娶って手を結び本山茂辰の攻撃に協力している。
 その後も功があり幡多郡の土佐山路城主となった。1579年に地蔵嶽城主・大野直之が小早川骭i・河野通直の連合軍に攻められた際、救援に向かったが骭iと和睦して撤退(地蔵嶽城の攻防戦)。これが元親の機嫌を損ない山路城を没収され、本拠地の波川に蟄居させられた。
 元親の処置を不満に思った清宗は謀叛を画策。諸将に同心を呼びかけたが、応じたのは一条内政と娘婿の北之川親安だけだった。しかし露見したため剃髪して高野山に逃れようと、阿波海部の香宗我部親泰を頼ったが許されず1580年3月28日に切腹させられた。
 その後、一族は土佐鎌田城に籠もったが討ち死にしている(土佐鎌田城攻め)。

高知県吾川郡いの町波川にある土佐波川城跡
土佐波川城跡
UPDATE 2012年5月17日
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