山口県史跡巡り2009(3日目後半:若山城・勝栄寺・陶興房の墓・陶一族の墓)

34.若山城・・・周南市福川・夜市にある。大内家の重臣・陶家の居城。厳島の戦い後、防長に侵攻してきた毛利軍によって落城。陶晴賢の息子・長房は龍文寺で自害し、陶家は滅亡している。
 入り口には晴賢を賛美する碑と供養塔みたいなのがあった。そこから車で駐車場まで上る最中、いろんな句が書いてあった。
「夏草や兵どもが夢の跡」
なんて有名なやつとか、地元の方が考えた句とか。
 駐車場について歩いて本丸に登る途中、また何か書いてあったので見てみた。

 そ、そうですか・・・。陶家って晴賢の反乱さえなければ、大内家のために力を尽くしてきた一族だし、晴賢の反乱も大内家を思ってらしいから、地元の方には慕われているんでしょうね。

35.勝栄寺・・・周南市中央町にある。陶家が建立した寺。周りに土塁があり、城としての役割もはたしていたようだ。1557年、毛利元就が防長に侵攻した際、ここに布陣した。有名な「三子教訓状」はここで書かれたと言われている。

 ここで腹が空いて我慢が出来なくなったので、食事をするところを探したけど無かった。仕方なくコンビニで蕎麦とサンドイッチを食べたTT

36.健咲院・・・周南市土井にある。陶興房(晴賢の父)が両親の菩提を弔うため建てた。陶興房本人の墓がある。また毛利元就が寄進した袈裟などがある。
 墓地が高台にあるので階段を登っていると・・・うお、近くに広島県に住んでいた頃、よく行っていた「とんかつの浜勝」があるじゃん!! もうちょっと我慢すれば良かったぜ。ここの漬け物が旨いんだよなあ・・・。

(陶興房の墓。上の部分が傾いているのが気になった)

37.龍文寺・・・周南市長穂にある。1429年に陶盛政が建立し、以来、陶家の菩提寺となった。厳島の戦い後、毛利軍が攻めてきた際、陶晴隆の息子・長房らはここで防戦している。天然の要害だった龍文寺は容易に落ちなかったため、毛利軍は兵士を念仏踊りの踊り子に変装させて境内に入り込ませ、陶軍を攻撃した。観念した長房は自害している。
 今は山の中にあり隣にゴルフ場があるだけという寂しい状況だが、敷地の広さや山門を見ると格式の高い寺なのが分かる。
 裏山に陶一族の墓があるが、二基以外は誰の墓なのか特定できていない。ああ、陶家・・・TT
 あっ、雪が降ってきた・・・。

 この辺りから悪寒がしてきた。最初は冷えてきただけかと思ったが、頭がふらふらしてきたので、風邪をひいたかも・・・。

38.沼城・・・周南市須々万奥にある。沼城主の山崎興盛・隆次親子は毛利元就の防長侵攻の際、2度も毛利軍を撃退している。しかし3度目の攻撃で城を囲んでいた沼に毛利軍が簀の子を投げ入れ、その上にムシロを敷いて、元就・隆元・小早川隆景らが総力を挙げて攻めてきたため、さすがの堅城もあえなく落ちている。
 現在は遺構を示す物は何もない。碑と城主の墓があるのみである。

 まだ時間があったが、体調がますます優れなくなってきたので、徳山駅前のホテルに急いで帰った。大晦日だったけど、すぐに寝た。

感想:今回は戦国前期~中期のものがほとんどだった。山口県って後期は毛利のおかげであまり戦争が起こっていないので、その頃築かれた城などの史跡が少ないようだ。
 史跡とは関係ないけど、徳山っていう地名が消えて周南市という名前に変わったのには違和感があった。歴史のある地名だから「徳山」って名前は残して欲しかった。

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