筑後守 について

過去の著書 ○もっと知りたい! 長宗我部元親 ○戦国武将の意外な関係 ○「戦国合戦」 意外・驚きエピソード ○大坂の陣・なるほど人物事典

備中 国吉城(小早川隆景の攻撃を受けた三村氏の城)

●備中 国吉城(手要害)
住所:岡山県高梁市川上町七地
駐車場:あり
遺構:曲輪、土塁
標高:413メートル/比高:34メートル

 高梁市指定史跡。『川上郡誌』『備中府志』には元弘の乱で六波羅探題に敗れた安藤太郎左衛門元理によって築城されたとある。戦国時代になると三村氏が支配し三村政親が城主となった。天正2(1574)年、三村家当主の三村元親が毛利氏と手を切ると12月には小早川隆景が手要害(国吉城)の攻撃を開始。すぐに三村軍は降伏しようとするが隆景は許さず猛攻撃を加え、翌月の天正3(1575)年1月に落城し政親は逃亡したという。
 毛利氏の支配下になると口羽春吉や有福民部が入り、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで毛利氏が防長に押し込められると糟屋武則が入った(『川上郡誌』)。だが武則は関ヶ原の戦いで改易されたというのが一般的であり間違いだと思われる。慶長16(1611)年、徳川幕府直轄領になってすぐに廃城となったという。

(城に続く道。土橋に見えた)
土橋

(国吉城の北側に城らしきものがあると思って撮影し、後日帰宅して確認したら小城山城という城だった。曲輪や堀切があり、国吉城の北を守る出城のようなものだったのだろうか)
小城山城

小城山城

小城山城

小城山城

小城山城

(記事の下にある縄張図の北端。曲輪Ⅰにある荒神社の参道になっている)
北端

北端

北端

北端

北端

北端

(曲輪Ⅰ)
曲輪Ⅰ

曲輪Ⅰ

曲輪Ⅰ

(曲輪Ⅱ)
曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

(曲輪Ⅲ)
曲輪Ⅲ

(曲輪Ⅳ)
曲輪Ⅳ

曲輪Ⅳ

(曲輪Ⅴ)
曲輪Ⅴ

(曲輪Ⅵ。三村政親一族の供養碑が建つ)
曲輪Ⅵ

曲輪Ⅵ

曲輪Ⅵ

(曲輪Ⅵの下。図面にはないがここも曲輪に見えた。しかし畑の跡のようにも見えるい)
曲輪Ⅵの下

曲輪Ⅵの下

(全景)
全景

参考文献:岡山県中世城館跡総合調査報告書 第1冊 備前編、岡山県の地名、川上郡誌 (岡山県郷土誌叢刊)

感想:有名で登山しなくても行ける山城だったので行ってみました。駐車場に行くまでの道が狭いため運転が苦手な方は注意してください。

(縄張図。クリックすると別タブが開きます)
縄張図


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掲載の縄張図について


播磨 仁位山城(毛利軍が上月城攻めで利用した付城)

●播磨 仁位山城
住所:兵庫県佐用郡佐用町仁位
駐車場:東側の曲輪に駐車スペースあり
遺構:曲輪、畦状竪堀群、堀切、土橋、土塁
標高:231メートル/比高:41メートル

 天正5(1577)年、羽柴秀吉が毛利方の赤松氏(上月氏)が籠もる上月城を攻めた際に付城として築城したという説もあるが不明。天正6(1578)年、毛利軍が上月城に籠もる尼子再興軍を攻めた際に付城として利用した。毛利元就が出雲の月山富田城を包囲した際に本陣とした出雲勝山城と同じく周囲を畦状竪堀群で防御していることから可能性が高い。曲輪に関しては削平が甘い箇所が多く急造した感がある。

(佐用川の対岸から見た仁井山城。木が生えていない当時は畦状竪堀群が見えていたと思う)
佐用川の対岸から見た仁井山城

(向かって右が仁井山城で左が上月城)
右が仁井山城で左が上月城

(入口。ここも害獣対策のため自分で開閉するようになっている。道も整備されており車だと楽に山頂まで行ける。ちなみにこの辺りの字は出口や上ノ出口だが城と関係があるのだろうか)
入口

(曲輪P。ここに車が駐められる。場所は下の概略図を参照)
曲輪P

(曲輪群Ⅰ)
曲輪群Ⅰ

曲輪群Ⅰ

(曲輪Ⅱ。ここから上月城が見下ろせる。西の曲輪は削平がしっかりしてあった)
曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

曲輪Ⅱ

(Aの堀切と土橋)
Aの堀切と土橋

Aの堀切と土橋

Aの堀切と土橋

(曲輪Ⅲ)
曲輪Ⅲ

曲輪Ⅲ

曲輪Ⅲ

(北端の曲輪群Ⅳ)
曲輪群Ⅳ

曲輪群Ⅳ

(戻って曲輪Ⅴ。ここから先は削平が甘い箇所が多い)
曲輪Ⅴ

曲輪Ⅴ

曲輪Ⅴ

曲輪Ⅴ

曲輪Ⅴ

曲輪Ⅴ

(B地点。小さな堀や曲輪があった)
B地点

B地点

B地点

(曲輪Ⅵ。便宜上、番号で分けているが境目が分からない)
曲輪Ⅵ

曲輪Ⅵ

曲輪Ⅵ

(曲輪ⅦとⅧ)
曲輪ⅦとⅧ

曲輪ⅦとⅧ

曲輪ⅦとⅧ

(堀切群C)
堀切群C

堀切群C

堀切群C

堀切群C

(曲輪Ⅸ)
曲輪Ⅸ

曲輪Ⅸ

曲輪Ⅸ

曲輪Ⅸ

曲輪Ⅸ

曲輪Ⅸ

(曲輪Ⅸから見た羽柴秀吉の本陣・高倉山城。と言ってもどれか分からんかった。多分、向かって右だと思うが。仁井山城が上月城と高倉山城の連携を断つ位置にある)
高倉山城

(Dの曲輪と堀切)
Dの曲輪と堀切

Dの曲輪と堀切

Dの曲輪と堀切

(仁井山城の一番の見所の畦状竪堀群。写真はEの辺り)
畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

(地点Fの周辺。横堀などがある)
地点F

地点F

地点F

(南側のG周辺にある畦状竪堀群。ここが一番分かりやすく、比較のためマネキンが立ててあった)
畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

畦状竪堀群

(畦状竪堀群を見た後、山道を下って上月駅にある売店でパンを買った。数キロ北に戻れば食堂などがあったが面倒だった)
山道

パン

参考文献:兵庫県の地名Ⅱ、兵庫史の研究:松岡秀夫傘寿記念論文集、中世播磨250の山城

感想:畦状竪堀群と上月城を見下ろす位置から勝山城など京羅木山城砦群を意識した感じがあり「月山富田城攻防戦の再現だ。今回こそ尼子再興を目指す奴らを滅ぼす」という毛利軍の強い意志を感じます。

(概略図。クリックすると別のタブが開きます)
概略図


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三村家親宝篋印塔(興禅寺跡)

●三村家親宝篋印塔(興禅寺跡)
住所:岡山県久米郡久米南町下籾
駐車場:なし

 永禄9(1566)年、備中の成羽城主・三村家親は美作に侵攻し興禅寺に滞在した。これに対して宇喜多直家は備中の浪人で家親の顔を知っている遠藤兄弟を向かわせ狙撃を命じる。遠藤兄弟は見事、鉄砲での狙撃に成功し直家から賞された。
 興禅寺は明治5(1872)年、無住と檀家がないため廃寺となり明治44(1911)年に同じ地区の瑞泉寺に併合されている。寺の跡には家親の供養塔が建つ。

三村家親宝篋印塔

三村家親宝篋印塔

三村家親宝篋印塔

参考文献:岡山市史 第2、小田郡誌 上巻 増訂 (岡山県郷土誌叢刊) 、岡山県の歴史、津山瓦版

感想:南の建部町方面から行ったら山道で運転に苦労しました。宝篋印塔の南は民家、東は害獣除けの柵がしてあって近寄れなくなっています。


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