筑後守 について

過去の著書 ○もっと知りたい! 長宗我部元親 ○戦国武将の意外な関係 ○「戦国合戦」 意外・驚きエピソード ○大坂の陣・なるほど人物事典

万松山正護寺(陶氏館跡)

●万松山正護寺(陶氏館跡)
住所:山口県山口市陶郷上3907
駐車場:境内に駐車可?

 臨済宗東福寺派。延文年間(1356~61年)、当地を治めていた陶弘政が居館のそばに祈願所として創建した。その時は曹洞宗で、陶氏や大内氏の庇護もあり栄えたが厳島の戦い後に毛利元就が両氏を滅ぼすと衰微する。のちに毛利氏が再興したが永禄12(1569)年の大内輝弘の乱で兵火により焼失。しばらく再建されなかったが、江戸時代初期に地元出身の大円恵満が移転し現在地に再建した。
 陶氏は大内氏の庶流で当地を領して居館を構え陶氏を称した。その後、陶氏は周南市富田に拠点を移している。

(山門。小郡代官所の正門を移築したもの)
山門

山門

(本堂。前は塀で囲われていたのか?)
本堂

本堂

(陶氏の二代目・弘政の墓(中央))
弘政の墓

(陶晴賢の墓)
陶晴賢の墓

(陶晴賢250回忌に建てられた供養塚)
供養塚

(寺の前にある陶氏居館跡)
陶氏居館跡

陶氏居館跡

陶氏居館跡

感想:居館の遺構はないと思っていたが、後で調べたら土塁があったらしい。無念・・・。



二宮就辰の墓(山口県防府市)

●二宮就辰の墓
住所:山口県防府市伊佐江
駐車場:なし

 二宮春久の息子(毛利元就の落胤説あり)で毛利家に仕えた二宮就辰の墓。共同墓地の一角にある。
二宮就辰の墓

二宮就辰の墓

二宮就辰の墓

感想:ネットで検索すると前は領地だった門田の森と呼ばれる場所にあったそうですが、南西にある自衛隊の基地建設に際して移転されたようです。森の名前は息子の元経が門田姓を名乗ったことから来ているそうです。



四面山勝定寺(出雲古志氏ゆかりの寺)

●四面山勝定寺
住所:島根県出雲市馬木町59
駐車場:有り

 臨済宗。天正5(1577)年、戸倉城主・古志重信が石見小笠原氏の旧臣・高見長清の孫である僧・正菊を開基として創建した。当初は比丘草庵と号していたが、のちに勝定寺と改められる。天正17(1589)年頃、重信が出雲を去った後も伽藍の整備が進められた。七代住職・湘南が出雲市渡橋町の観音寺から入って隣の土地を買収して境内を広げ、明治年間には十三代住職・禅正が更に境内を拡張し、庭園を造って数百株のツツジを植えている。昭和年間には十八代住職・弘篤氏が老朽化した伽藍と庭園を整備した。
 真言宗であったが、のちに観音寺の末寺となり臨済宗に改宗したという。『朝山村史』には天正以前に建てられた可能性があるとの記載がある。

(参道。左手に駐車場がある)
参道

(山門)
山門

(参道その2)
参道

(大慈閣)
大慈閣

(本堂)
本堂

(鐘楼)
鐘楼

感想:『山陰の戦国史跡を歩く 島根編』から割愛した史跡です。
 ここはツツジの名所として知られていますが私が行った時は時期がずれていたので見ていません。訛りのせいか何故か地元の人と間違えられ観光客にツツジについて質問されました。